The Neighborhood Association of Nakakokubun Ichikawa City
市川市中国分自治会
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目 次
  中国分史書編集委員会
  (吉岡、安達、三上、小林)

 第1章
 中国分街の生い立ち

第2章 明治期・大正期・昭和期の中国分街の変遷
  第1節
明治期の変遷
  2
大正期の変遷
  第3節
昭和期の変遷
  第4節
明治期・大正期・昭和期の市川の生活および生活空間の変容
 中国分歴史探訪(番外編) 
中国分の住宅建築現場から遺跡発掘
 
(引用文献)
 緊急開拓事業実施要領
東台開拓三十年誌
千葉県戦後開拓史
市川市国府台ー軍都から学術文化都市への生活空間の変容1
中国分自治会創立三十周年記念自治会誌稿
千葉ベタニヤホームー後援会だより(二・三号)
市川市史写真図録 この街に生き・暮らす、じゅん菜池 今とむかし
東台開拓三十年誌

        中国分歴史探訪      
 
 
  第二章 明治期・大正期・昭和期の中国分街の変遷

 天皇統治の律令国家が成立した古代においては、国府台地区を中心に国分地域は、下総国府が設置されて、地方行政の中心的役割を担っていた。

さらに下総国分寺・下総尼寺が建立されて、思想的統治の中心地域あるいは地方文化の発信地であったと考えられる。

 時代を経て、明治期においては、首都圏に隣接しているとは言え、地方の一寒村にすぎなかった市川地域が、突然、学園都市、そして軍事都市へ転換し、昭和期に入り、学術文化都市へと変容していった。
中世国家から近代国家への変容に関する社会情勢は、地方の政治・経済・文化などに多大な影響を与えていった。

当時の生活および生活空間が変容するなかに、中国分街の変遷を検証する多くの社会的事象が含まれている。

 この変革の時期は、次のの三期に区分される。
第一節 明治期の変遷
   (国府台大学設置計画から 
    軍事都市市川への変革)
第二節 大正期の変遷 
   (近代国家としての軍備の拡大期)
第三節 昭和期の変遷
   (昭和初年から昭和二十年
    軍事都市市川の変容)
 

 
第一節 明治期の変遷

第一項 国府台の大学校設立構想

 明治初期、当時の文部大輔であった田中不二麿は、国府台に「真ノ大学校」を設置する計画を提言し、明治政府の議会は、これを決定した。

 この決定により政府は、国府台の土地二十四町歩(約二十三万八千平方メートル)を、大学建設用地として買い上げた。

 明治三年、それまで、この地域内の土地を社寺地として領有していた総寧寺および天満神宮並びにこの地を耕作地としていた十七戸の農家が移転させられた。

 文部大輔田中の「真ノ大学校」構想は、欧米の視察から得た知識などから、大都会の喧噪な地から離れた土地に、現在の東京大学あるいはそれ以上の学術教育機関を設置するものであった。

 明治四年七月、明治政府は、文部省を設置、欧米諸国の教育制度を取り入れた国民教育の基本構想の作成に着手し、翌五年八月に『学制』が発布された。

これによると、全国を八つの大学区に分け、それぞれの大学区を三十二の中学区に分け、さらに中学区を二百十の小学区に分けるのもであった。それぞれの学区に、大学校、中学校、小学校を一校ずつ設置するものであった。

 関東地方全域と山梨県および静岡県を含む地域が第一大学校区であり、国府台地域が大学校建設用地として注目された。
 
   明治八年六月、国府台に大学校を設置することが決定された。
しかし、当地は首都に隣接した地域であったが、交通機関は川を渡る手段としては渡し舟しかなく、さらに当地が高台に位置しており、飲料水の確保が困難であったなど環境の整備が不十分であったため、教授陣からの反対に会い計画は中止されることになったという記録が残されている。
 その後、明治十年、東京の本郷に東京大学が設立されて、国府台の大学建設は実行されなかった。

 しかし、明治十三年まで土地買収措置が続けられたことから、明治政府における高等教育の全体的な構想の中には、国府台の大学建設計画が生きていたと推測されるとの記録が残されている。

 このことは、昭和期に入り、第二次世界大戦終結後、この地に多くの学校が建設され、学校群が構成されて学術文化都市へと発展していった経緯の伏線となったのであろうか。 

 
  第二項 軍事都市市川への転換

 大学建設計画が中止された後、農地を売却した農家は、低価格で農地を借り受けて、明治十八年五月、国府台に陸軍教導団が移転するまで耕作を続けていた。

 明治三年四月二十四日陸軍教導団は、大阪にあった陸軍兵学寮内で編成された教導隊を前身とする陸軍省直轄の下士官養成機関であった。

 明治十八年当時の教導団団長渡辺央の建議により、市川市国府台への教導団移転が決定された。

 教導団が国府台に移転した理由は、教育施設建設のためにすでに買い上げられていた土地が明治十三年に文部省から陸軍省へ移管されていたこと、都会を離れて静かな環境で渡河訓練などが可能なこと、首都東京が見渡せる高台であるため首都防衛に有利な立地であったことなどから議会での決定は円滑であったのではないかとの記載が残されている。

 教導団の国府台移転決定後、最初に行われた工事は、兵舎や訓練場などの関連施設を建設するための物資運搬用道路(現在の県道市川ー松戸線にあたる)建設であった。 
 
    明治十八年五月十九日、兵営建設中、教導団歩兵大隊の移転を皮切りに、翌年までに、陸軍病院、軍楽隊、砲兵大隊、工兵中隊、騎兵中隊、教導団本部が移転を完了した。

その数は、二千二百三十九人であり、明治二十四年の市川町の人口三千八百八十四人と比較して、如何に多くの軍関係の人々が移住して来たかと言うことである。

この人口増加によって、東京から教導団を目当てに多くの商店が移り、商店街を形成して行くことになり、さらに現在の県道市川ー松戸線となる道路が整備されるなど村から町への変容を見せ始めて行った。

 このような展開の中にあって、国分台地の一画(東台地域:現在の中国分)は、明治十八年および三十六年の二度にわたり、軍用地として政府に買い上げられた。最終的には七十四町歩の広大な土地は、当初より国府台に駐屯していた陸軍の東練兵場および小銃の射撃訓練場として使用された。加えるに隣接の国分地域には高射砲陣地が建設された。


 教導団移転後、連隊ごとに下士官教育を行うことになったため、明治三十二年十一月三十日に教導団が廃止されたが、この間に約二万名の下士官を輩出し、その中には、将官にまで昇進したものがいたとの記録が残されている。教導団廃止後には、多くの砲兵関係の軍隊が駐屯して、砲兵の町として栄えていくことになった。

 明治三十二年十一月二十四日、野戦砲兵第十六連隊が教導団あとに創設された。 明治三十七年二月日露戦争が開戦し、この野戦砲兵第十六連隊は出撃・参戦して、同三十九年二月に凱旋した。

 明治四十年に編成改正が行われて、野戦砲兵第二旅団所属部隊が第一連隊、第十六連隊、第十七連隊、第十八連隊から第一連隊、第十五連隊、第十六連隊へと再編成された。明治四十一年九月、第十五連隊が国府台に移住した。

 この後の変遷は、大正期へと連続して行われた。
大正期は、近代国家として資質を備える必要性から軍備の拡大期へと変遷を図る時期であった。

 
  第二節 大正期の変遷
(近代国家としての軍備の拡大期)

 大正八年、第十四連隊および野戦砲兵第二旅団司令部が国府台に設置されるようになった。一時的に野戦砲兵第一連隊および第十七連隊が駐屯していたが、第十四連隊、第十五連隊、第十六連隊の三連隊が国府台に常駐していた。

 大正十一年、陸軍省史上初となる軍縮(山梨軍縮と呼ばれる)により、編成改正が行われて、野戦砲兵第二旅団司令部は廃止された。代わりに野戦重砲兵第三旅団司令部が新設され、国府台地区には野戦重砲兵第一連隊および第七連隊、騎砲兵連隊が設置された。

この野戦砲兵と野戦重砲兵の違いについて述べると、野戦砲兵は、六頭程度の馬によって大砲を牽引させる部隊であったが、野戦重砲兵は、より重量のある大型の大砲を牽引するために、トラクターあるいは戦車に類似した車両を用いた部隊であった。軍縮とはいえ、軍備の近代化および強化を図ったのであろう。

第三節 昭和期の変遷
(昭和初年から昭和二十年軍事都市市川の変容)

 昭和八年十月二十五日、騎砲兵連隊が移転したため、昭和十年、高射砲連隊が移住して駐屯するようになった。現在の西部公民館当りの地区に、首都防衛のためであろうか、高射砲陣地が造られた。

 昭和十二年、日中戦争が勃発した。
昭和十六年十二月、太平洋戦争が起ったが、日本国は、本戦争に関する多くの記録が示す経過を経て、昭和十九年十一月米爆撃機による東京初空襲以降、日本全土に及ぶ空襲を受けて焦土と化し、市川でも被害が多発した。

 昭和二十年八月十五日終戦を向かえ、軍事都市市川は終焉を向かえた。


 
第四節 明治期・大正期・昭和期の市川の生活および生活空間の変容

第一項 市川の住環境の変遷
 陸軍の駐屯は、鉄道交通機関の創設および整備並びに店街の操業による町の賑わい、商業収入の高騰、地元産業の活性化、遊園地事業の操業、三業組合(料理屋・待合茶屋・芸妓置屋を指す)や割烹旅館の発展に影響を与える極めて大きな要因となった。

 明治の後期は、日本国が置かれていた世界情勢を鑑みると、一地方の町が地方中核都市への変革を図るためには、軍事関連に密なることは必須の条件ではなかったかと推測される。
 この様な国府台地域の変容の中にあって、東練兵場および射撃訓練場であった国分台地の一地区(現在の中国分)は、どの様な状況であったのであろうか。

生活空間である居住地域の変遷の時間的経緯を考慮した動態地図で検証する。

 明治十三年七月、千葉県下総国東葛飾郡市川駅近傍村落地図(陸軍参謀本部による迅速測量二万分の一フランス式彩色地図) (図1・明治13年陸軍参謀本部測量図) によると、住宅は、市川駅周辺に密集して立ち並んでいた様子がみられる。その他の住宅密集地域は、須和田村、真間村、国府台村、矢切村、上矢切村、大橋村、国分村(国分台地南端)などであった。その他の多くの地域は、畑、田および林が占めていた。



 さて、当時の国分台地北側の地区は、大部分の土地が畑であり、北側の地区には、松や櫟など灌木の雑木林が占めていた。国府台方面から蓴菜池を越えて当地区を横断して現在の堀之内へ向かう道路がみられ、当地区の主要道路であった。

現在の中国分四丁目の北寄り当たりに住宅を思わせるマークがみられるが定かではない。

 平成八年頃に書かれた当地区想定図 (図2・明治13年国分周辺の想定図) には、「十五代続く屋号シモヤシキ」との記載が残されており、さらに蓴菜池のほとりに住んでいた「サヘイ」さんと「ジェム」さんが副業に蓴菜池で蓴菜を採っていたとの記載がある。いずれにしても、住居を建て、人々が集い生活圏を構築できるように整備された地区ではなかったようである。



 明治四十年頃の陸軍参謀本部による測量図 (図3・明治40年陸軍参謀本部測量図) によると、市川町の住宅密集地域は、範囲を拡大して住宅の数が増しており、また国府台坂下地区に「根本」の地名がみられ、この地区の急速な人口増加がみられる。



 当時、根本の街は、根本発展会が成立し市川では最も早く栄えた地域となった。
 国分台地には、新練兵場および陸軍射撃場の記載がみられる。しかし、新たな住宅の増加はみられなかった。

 平成七年頃に書かれた大正時代の当地区想定図 (図4・大正時代国分村の想定図) によると、国府台には、野戦砲兵第十五連隊・第十六連隊・第十七連隊が駐屯していた。



また、総寧寺境内には陸軍病院が設置され、江戸川近くに八景園が開園しており、市川・松戸道路から真間川畔沿いに桜並木が造られ、陸軍御用達の店舗など軒を並べて軍事都市として完成された形を整えつつあった。
 当時、とくに興味が持たれるのは、遊園地が日本各地に登場していたが、大正十一年から大正十三年に里見八景園と言う遊園地が開園(現在の里見公園内)し、昭和八年まで続いたことである。
また、現在の京成電鉄国府台駅近くに、火力発電所(明治四十四?大正三)の名称が記載されている。

 里見八景は、富士の白雪、葛西の落雁、安国の晩鐘、武蔵の春嵐、利根の帰帆、戦場の夜雨、赤壁の秋月、市川の夕暮が挙げられ、江戸名勝として知られたものも含まれていた。

 さて、国分台地の一画(現在の中国分)は、陸軍射撃場と三角山、東練兵場と監視所、陸軍墓地、馬頭観音像(馬の墓地)などの記載がみられ、蓴菜池や不入斗(いりやまず)そして道免谷津(どうめきやず)に囲まれた荒涼とした風景をみせていたのであろうか。

 昭和三年、松井天山制作の市川地域鳥瞰図 (図5・昭和3年市川地域鳥瞰図部分) によると地方中核都市として発展した市川は、完成された軍事都市として極めて精密に描かれており、高い商業力と経済力、芸能の展開、食文化の高揚を感じさせた。



 一方、蓴菜池と姫宮の名称については、欄外と思しき最上段に小さく掲載されており、その存在は極めて軽いものであった。当地は市川のチベットと称された時期があった。

 昭和九年頃の陸軍参謀本部の測量図 (図6・昭和9年陸軍参謀本部測量図) によると、国府台には、騎馬砲大隊、野重砲七連隊が駐屯していた。



市川駅周辺の住宅密集地域は、人口密度を増加させつつ真間地区、須和田地区、根本地区および国府台地区方面へ拡大して街並は連続していった。国分台地の下側地域には六反田と根古屋の地名もみられ、住宅が密集していた様子がみられる。

また、住宅地は平川および北台方面へと拡大していった。

国分台地の北側一画(現在の中国分)は、東練兵場および陸軍射撃場の記載がみられるのみで、大部分は雑草地でり、数個の住宅を思わせるマークがみられるが定かではない。

 昭和二十年、第二次世界大戦終結時の想定図 (図7・昭和20年終戦時の想定図) によると、国分台地の北側一画(現在の中国分)は、陸軍射撃場の記載がみられる。また、南端の一画に高射砲陣地とともに、十数棟の高射砲兵舎がみられ、この期になって人々の痕跡を垣間見ることができる。



 軍事都市の日常としては、陽のあるうちは、当地(中国分)では激しい小銃発射音が鳴り響き、軍隊の教練の雄叫びが響き渡っていたであろうか。夜の帳がおりる頃、静寂が戻り、荒涼とした台地が闇に沈んで人影も無かったであろうか。

 一方、国府台地域では、華やかな夜の営みが繰り返されていたであろうか。
 人々の日常的な生活空間が当地区(中国分)に構築されるまでには、幾ばくの年月の経過を要したのであろうか。
 
   
 
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