The Neighborhood Association of Nakakokubun Ichikawa City
市川市中国分自治会
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目 次
  中国分史書編集委員会
  (吉岡、安達、三上、小林)

 第1章
 中国分街の生い立ち

第2章 明治期・大正期・昭和期の中国分街の変遷
  第1節
明治期の変遷
  2
大正期の変遷
  第3節
昭和期の変遷
  第4節
明治期・大正期・昭和期の市川の生活および生活空間の変容
 中国分歴史探訪(番外編)
中国分の住宅建築現場から遺跡発掘

        中国分歴史探訪      
 
 
  中国分歴史探訪(番外編)
 
中国分の住宅建築現場から遺跡発掘
 
平成二十八年十月 テニスコート跡地の住宅建築現場(中国分二丁目)で遺跡の発掘調査が行われていたが、縄文時代と弥生時代のものと思われる遺跡がみつかり、現在詳しく調査されている。

国分台地(中国分地区)からは、遺跡発掘調査が行われて以来、多くの遺跡が発掘されている。

 市川市内の公立中学校で使用されていた歴史教科書(新しい社会 歴史:東京書籍)に中国分三丁目にある中台貝塚(なかだいかいづか)のたて穴住居跡から出土した縄文土器の写真が掲載されている(市川考古博物館から資料提供)。

これらの出土品は市川考古博物館に収蔵されており、希望者は閲覧できるとのことである。当博物館を訪れて、中国分に生活していたであろう古代人の文化に触れてみては如何か。

十月終わり発掘現場は埋め戻され永い眠りに就いた。現代に生きる私たちの眼に再び触れるのは何時の時代であろうか。 

市川の生活および生活空間の変容
第二項 市川の交通機関および道路の変遷

明治初年頃、江戸川には橋が架けられておらず、渡し船で渡河していたが、市川地域の交通機関は、江戸川水系および利根川水系を利用した舟運であった。
江戸川に木製の市川橋が竣工したのは、三十年以上経過した明治三十八年になってからであった。
明治十年 内国通運(現在の日本通運)による航路が開設され、蒸気エンジンを搭載した外輪船が就航して、明治十年頃から昭和十年頃まで、その航路はかなりの広がりをみせていた。
江戸時代末期から北海道や東北からの物資の流通経路は.船便にて銚子から利根川を上り関蓿(現在の野田市)経由で江戸川を通って江戸に運んでいた。

しかし、利根川と江戸川の分岐点である関蓿地域は浅瀬が多く航行の難所であった。難所を避けるために,オランダ人技師ムルデルは、当時の先進技術を用いてわずか二年間で、明治二十三年八.五キロメートルの利根運河を開通させたが、昭和十六年その歴史を閉じたとの記録がみられる。

千葉県内の鉄道の建設が遅れた理由は、千葉県内における都市化の未成熟、農業や工業の生産力の向上の遅れ、そして舟運会社の猛反対があったとの記載がみられる。
しかし、舟運は、鉄道の発達により全体的には衰退の方向へ向かっていた。

明治二十七年七月、武総鉄道と総州鉄道が合併した総武鉄道(現在のJR総武線)は、市川ー船橋ー千葉ー佐倉間を、同年十二月、本所(現在の錦糸町)ー市川間を開通し、同時に市川駅が開業した。橋が完成し、本所ー佐倉間が直通開通した。

 明治三十九年二月十七日、鉄道国有法が内閣で成立したために、明治四十年九月一日、総武鉄道は政府に買収、移管された。後年、昭和六十二年四月一日、再び国有鉄道は、民営化されて現在に至っている。

鉄道が開通した主な理由は、千葉県が県内の大量の水産物や農産物を生産する供給地として発展していたこと、軍隊駐屯地(佐倉歩兵連隊、国府台陸軍教導団、習志野練兵場、下志津射撃場)が多数存在しており、首都圏と連絡を密にする必要があったことである。

明治四十二年六月三十日、京成電気軌道株式会社は創設され、申請された押上ー成田間の軌道敷設工事が四期に分けて行われた。

江戸川にまつわる逸話として、開通当初は、押上ー伊与田(現在の江戸川駅)までで、市川へは伝馬船で乗客を運んでいた。この原因は、江戸川の川幅が広い、河川改修の不備、流速が速いことなどの悪条件が重なり鉄橋建設が難航したためという記録が残されている。 

大正三年八月、江戸川鉄橋が竣工して、押上ー市川新田(現在の市川真間駅)が開通し、市川鴻ノ台駅(現在の国府台駅)が開業した。

京成電気軌道株式会社の他の事業は、沿線の土地開発および遊園地事業を進め都市化に貢献したことであった。さらに特筆すべきは、明治四十四年七月、市川町に電気事業として、火力発電所を設置して電力を供給したことである。昭和の始め頃までには、ほとんどの家庭に電灯が普及していったという記録がみられる。

市川 国分・国府台近傍図のうち大正期の想定図に記されている火力発電所の名称がこれに当たるのであろう。

軍事都市として発展した市川の交通網は、その必要性から主要幹線道路は整備され、さらに商店街の発展および住宅密集地の拡大に伴い、生活道路も整備、延長して行き、市民生活の利便性が増して行った。

市街地における市民の足であるバス路線の状況については、大正時代の後半頃から乗合自動車の営業者が続出していたが、昭和五年五月、京成乗合自動車株式会社が設立され、これらの事業者を統合していった。

当時の乗合自動車は、外国製で八人から十五人乗りくらいの小型バスであったと記録が残されている。

さて、国分台地の北側の一画(現在の中国分)の交通網は、どの様な整備状況であったであろうか。
市川市街地および国府台地域とはほど遠い状況下にあり、陸軍の東練兵場と射撃訓練場の機能は果たしていたが、軍用地として戦車や砲車が通行可能な道路が存在するのみで、人々の生活空間を支える交通網の整備は、第二次世界大戦終結後、当地で入植者が開拓を始めるまでの年月を待たねばならなかった。
     
 (現在の運河水辺公園)    (大正10年国府台・江戸川鉄橋)
     
 (明治23年利根川運河開通)   (昭和47年京成電鉄江戸川鉄橋)
     
 (昭和初期市川橋)    

 
   
 
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