The Neighborhood Association of Nakakokubun Ichikawa City
市川市中国分自治会
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目 次
  中国分史書編集委員会
  (吉岡、安達、三上、小林)
  連載に先立って 
第1章
 中国分街の生い立ち 
   第1節
 入植者とその家族
  第2節
東台開拓農業協同組合の
歴史
  
第2章
 明治期・大正期・昭和期の
    中国分街の変遷 
 
  中国分歴史探訪(番外編) 
中国分の住宅建築現場から遺跡発掘
 
(引用文献)
 緊急開拓事業実施要領
東台開拓三十年誌
千葉県戦後開拓史
市川市国府台ー軍都から学術文化都市への生活空間の変容1
中国分自治会創立三十周年記念自治会誌稿
千葉ベタニヤホームー後援会だより(二・三号)
市川市史写真図録 この街に生き・暮らす、じゅん菜池 今とむかし
東台開拓三十年誌

        中国分歴史探訪      
連載に先立って

中国分街の起点は、昭和二十年第二次世界大戦終結とともに、国府台に駐屯していた陸軍の軍人・軍属などが入植して、開拓を始めた時とされている(東台開拓30年誌・千葉県戦後開拓史)。

しかし、国分地域は、有史以前からの多くの記録があり、縄文・弥生時代を経て、天皇統治律令国家が確立されて栄えた。

諸説あるが、中国分自治会は、市川市史年表によると、昭和30年に設立、平成27年に創立60周年を迎えることになる。現在では、開拓当時を知る人々は、数名のみがご健在である。

この期に当たり、中国分歴史書編纂事業が中国分自治会において決定された。これに伴い、編集委員会が担当編集者として吉岡、安達、三上、小林の四名を指名して発足した。現在までに記録文書、記念誌、開拓史書、著書、文集、写真、古地図、古墳・遺跡の記録など多くの貴重な資料が寄贈されている。

今回、編集の進捗状況をお知らせして、より正確な資料とするために、『中国分自治会だより』に『中国分歴史探訪』を連載することになリましたので、ご意見・ご指摘を頂き、さらに資料のご提供をお願い致します。
 
 
 
 
  第一章 中国分街の生い立ち
第一節
 入植者とその家族

 昭和二十年八月十四日、日本国政府はポツダム宣言を受諾して、翌十五日第二次世界大戦が終結した。

 国全体が疲弊しており、とくに農業生産力が極度に低下し食糧難に落ちていた。

 昭和二十年十一月九日、日本政府は、「緊急開拓事業実施要領」を閣議決定した。軍人や元農業従事者の帰農を促して開拓を行い、食糧増産をはかるためであった。この辺り(中国分)は、旧陸軍の国府台東練兵場および射撃場跡地であり、約七十町歩(約四十ヘクタール)が開拓地として払い下げられた。

 当地区への入植者は、独立工兵第二十五連隊関係十二名、野戦重砲兵第七連隊関係四名、独立野戦重砲兵第十九連隊関係八名、野戦重砲兵第一連隊関係二名、独立高射砲第三大隊関係三名、その他二名、総計三十一名とその家族の開拓苦難の歴史が始まった。
        
     
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   当時の東台(現在の中国分)は、中央部約五十町歩が平坦地で小柴状の原野を呈し、その他の約二十町歩には、松の大樹が林状に茂っていた。昭和二十一年の初めには、薪炭材の増産のために、市川市薪炭組合が伐採したと記録されている。

 入植者は、農業の未経験者が多く、年齢は四十五歳を頭に若者が多かったが、この地は、国府台駐屯の砲車旅団の練習場でもあったので、地表十数センチが非常に硬く盤状を呈しており、開拓当初、鋤鍬円匙などによる手掘共同作業から始まり、若干の機械導入があったが、困難を極めたと言われている。

当初、「帰農協同組合」と呼ばれていた組織があったが、昭和二十一年七月、開拓団の組織化の機運が高まると、「東台農業実行組合」が組織され、昭和二十三年八月、「農業法人東台開拓農業協同組合」へと発展していった。この組合を組織した入植者が現在の中国分街の礎を築いた人々である。
     
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   東台入植者三十一名は、妻帯者がほとんどであり、戦時中の世相を反映して、家族とくに子を多く抱えていたが、女性たちも農地開墾に従事せざるを得なかった。

 当時、東台地区には保育施設がなかったため、女性の負担は大変なものであった。
 この頃、千葉ベタニアホームの創設者で米国人信徒宣教師エーネ パウラスさんが国府台保育園を創設して保育業務に当たっていた。いきさつの詳細は不明であるが、橋本氏によれば、東台入植者の子が保育を受けることになっていた。

 年長の子が小さな子たちの手を引き、2歳といえども歩ける子を引き連れて、じゅん菜池の急坂を下り上りして国府台保育園へ通っていた。未舗装の道路を二十名ほどの子たちが連れ立って歩く姿は逞しくさえあった。年長の子たちは現在、七十歳代半ばの高齢者となっている。

 昭和二十一年入植者の要請により、パウラスさんは東台地区で保育業務を始め、翌昭和二十二年六月東台保育園を開所して本格的な保育事業を開始した。
        
 
 前述の橋本氏によれば、昭和二十二・三年頃になり、当東台地区にベビーブームが起こり、多くの世帯に新生児誕生が相次ぎ、一気に十数名の人口増加をみた(当時の総人口百十五人)。

パウラスさんの東台保育園は、開所時は二・三歳以下十名位の園児であったが、徐々に増して二十名位となった。喜ばしいことばかりではなく、子の衣服を整えることができずに、子を預けなかった世帯がいたという記事が残されている。
過酷な開拓の状況下で相互扶助にも限界があったのであろう。

一方では、子たちは、家事の手伝いに勢を出していた。東台地区は高台に位置し、なお市川市の中心部から離れており、生活ラインは、ほとんど未整備であった。

東台地区には、飲料水を確保するための井戸がわずかに三本しかなかった。
子たちの日常の重要な家事は、飲料水の貰い水の運搬であった。三上氏によれば、風呂用には満杯の水を入れたドラム缶をリヤカーに乗せて運んだという。頼もしい子たちであった。
  また、当時の城東区(現在の江東区)郊外学園教員寮裏に、旧陸軍が設置した深さ約百メートル、汲み上げ用の櫓の上に貯水槽を持つ井戸があり、水浴びを楽しんだとのお話が聞かれた。

戦後間もなくの頃、射撃場跡地には旧軍隊が用いた銃の空薬莢が地中に数多く残されていた。
これを回収するために専門の鉄くず回収業者が当地を訪れていた。開拓地には、砲車の残骸が点在しており、例の逞しき子たちがこの砲車から鉄片を集めて業者に買って貰い小遣い銭を稼いでいたという。また、中国分に隣接した国分地域には、高射砲の砲台跡が地中深く構築されており、現在も残されている。

 橋本氏、三上氏によれば、現在の三・五丁目あたりにコンクリート製の滑走路があったが、飛行機が飛んだことは一度も目撃していなかったと語っている。

また、終戦前には飛行機が飛んでいるところを目撃したとの証言があるという。
滑走路に関する記録は残されているが、実際に、何の目的で滑走路が存在したのか検証する必要がある。

この子たちが通った東台保育園は、昭和四十六年三月三十一日まで続き、市川市立中国分保育園と合併するため閉鎖された。この間の二十五年間に五百名から六百名の幼児が保育の恩恵を受けた。
 
 射撃場跡地(現在の四丁目)は、幅二百メートル、奥行き六百五十メートルあり、北の外れに標高四十数メートル(当時市川市で最も高い場所と言われていたが、詳細は不明)の三角山と呼ばれた丘があった。

 三角山の麓には射撃の標的がおかれ、さらに射撃場の両側にはコの字型に積み上げられた高い土手が築かれており、銃弾が反れることを防いでいた。
これらの造成物を造るための土は、周辺地域から削った土を盛り上げて造られたという記録が残されている。

小学生になった子たちは国府台小学校に通学しており、国府台からみると三角形をしていたので、この名で呼ばれていたが、子たちの格好の遊び場所でもあった。

後年になって、昭和三十年代に入り、日本の国情は安定して農業生産力が高まってきていた。このため中国分においては宅地化が進み、宅地造成のため三角山は削られて平地となってしまった。当時を知る人々の心の中に聳える幻の山である。

 
  第二節 東台開拓農業協同組合の歴史

 入植当初から「帰農協同組合」と呼ばれていた組織があったが、開拓団の組織化の機運が高まり、農地開発営団および千葉県の指導を受けて、昭和二十一年七月、「東台農業実行組合」が組織され、開墾や営農に努力していた。

 その後、千葉県の指導を受けて、東台農業実行組合は解散されて、昭和二十三年八月二十七日、「農業法人東台開拓農業協同組合」が創設された。
同年十二月十四日、記念すべき鍬入式は、開拓地の旧東練兵場中央より西側(現在の三丁目)の式場において行われた。

 参列した入植者は、旧軍隊払下げの古着に地下足袋、女性はモンペという野良着姿が印象的であったとの記録が残されている。

 東台開拓三十年誌(昭和五十二年三月二十日発行)によると、昭和二十年から同五十年の三十年間は、期別的に、また経営内容的に次の四期に分類されている。

 一 開拓初期 (昭和二十年〜二十四年)
 二 開拓中期 (昭和二十五年〜三十年)
 三 開拓後期 (昭和三十一年〜四十年)
 四 開拓終末期(昭和四十一年〜五十年)

 この四期間については、それぞれ特徴的な開拓の業績が列挙されている。
 中国分街の生い立ちは、東台開拓農業協同組合の歴史そのものであろう。 

  第一項 開拓初期(物資欠乏期) (昭和二十年〜二十四年)

 開拓初期は、終戦直後の物資欠乏期であり、入植者自身の食糧は、配給される麦や大豆粕などを主食とし、タンポポなどの野草やイナゴなどを糧として凌いでいたが、アメリカ軍の放出食糧(とうもろこし粉、小麦粉、押麦、缶詰)によって助けられた。また住居は兵舎跡、衣類は、軍隊の古着を繕い着て開墾に努めた。

 この開拓初期に作付け栽培された農作物は、大麦・小麦、陸稲、馬鈴薯、甘藷が主な作物であった。ドラム缶の風呂に入り月を見ながら汗を流したとの記載がある。子たちがリヤカーで運んだあのドラム缶の風呂であったのであろうか。

 特筆すべきは、昭和二十二年、農林省は、緊急食糧増産対策として、未利用資源開発を目的として国府台地区(東台地区)に製粉機、製麦機および製パン用機材の斡旋を行った。

これを受けて、東台開拓農業協同組合は、農村工業として、昭和二十二年六月製粉工場および製パン工場を完成し、同年七月製パン事業を操業した。

 製パン事業は順調に展開したが、社会情勢の変革に伴い、昭和三十六年七月二十三日製パン工場は閉鎖された。しかしパンの委託販売は閉鎖後も継続された。

 このパン委託業者は、現在、世界的シェアを誇る当時操業間もない山崎製パンで,その品を販売することであった。

  第二項 開拓中期(資金欠乏期)   (昭和二十五年〜三十年)
 開拓中期は資金欠乏期であり、開拓初期の主食型営農から、より高収入が得られる蔬菜型営農へ移行した時期であり、首都近郊農村として高級蔬菜を栽培することが有利な経営であった。

 これを実施するには、一戸平均三人以上の稼働労働力が必要とされたが、当時の東台地区では、入植者一世帯あたり平均配当面積は、畑一町一反歩で稼働労働力は、平均一.三人であった。加えて資金調達が困難な状況にあった。

 全面的に高級蔬菜栽培への移行は、不可能であったが、昭和二十七年には、酪農経営にも勢力を注ぎ、同時に蔬菜栽培を実施する経営方法で、五反歩は粗放的農業、五反歩以下は集約的農法へと移行した時期であった。

 当時の東台保育園園長のエーネ パウラスさん所有の大型自動耕作機を借用して、深さ三十センチ以上の深耕作業を推進して効率化を図った。

 この時期は、農作物の品種の選定、栽培技術の向上、増産方針などの研究が必要となり、成績向上に努めた。
 
  第三項 開拓後期(営農転換期)     (昭和三十一年〜四十年)

 
開拓後期は、営農転換期であった。
中国分の開拓地区は厳しい環境下であったが開墾が進み、営農事業や酪農事業などは、順調な展開をみせていた。

 国内の経済事情は、激しい転換期を迎えており、昭和三十二年には神武景気、三十六年には岩戸景気を経験して、その後の国民総生産は、毎年十パーセントを超える高度成長を続けた。

 中国分地区は、農作物栽培を中心とする営農が根本であるが、昭和二十七年には酪農経営が理想として出発していた。

 しかし、この経済激変期の到来により、さらなる大型化・合理化が要求された。 
 この時期の東台開拓地区の一戸当りの収入は伸び悩み、生活を維持するために専業農家から兼業農家へと移行する世帯が多くなった。また子たちの農業離れが進み、加えるに入植者である営農者の高齢化が進み、稼働労働力が極端な減少に向かっていた。

 国内の農業生産力の向上および流通機構の発達が進み、遠方地域から首都圏への農産物の流入が激増した。

 さらに近隣地域では、他産業の発展に伴い工場が建設され、労働力を吸収していった。
 この労働収入が農業収入を上回り、自然と農業経営は圧迫されて、基盤の薄い開拓地農業は、衰退を避けられなかった。

 開拓地区(中国分)の北部(現在の五丁目)が徐々に宅地化されて、さらに周辺地区も宅地化が急増した。
 
   流入人口が増すとともに、生活水準が上がり、農業収入では、この高水準の生活に伍することは不可能であった。

 このために土地を転売するもの、貸家や貸間に転業して収入に当てるものもいた。さらに密に畑の売却を企てるものが増加したとの記録が残されている。

 中国分地区は、首都に近接する近郊開拓地としての特徴を持っており、農地としてよりも宅地として発展する資質を有する特異地であるとの記載がみられる。

 昭和三十三年から不動産関連企業および公共施設などが参入して中国分地区の開発事業が始まり、宅地化と都市化が飛躍的に進んだ。

 都市化が進む中で、環境衛生問題が起こり、酪農の大型化は実現不可能となり、酪農・養鶏事業は中止または移転に追い込まれた。

 製パン事業においても、激しい経済事情の転換の余波を受けて、工程作業のオートメーション化に対応できず製パン工場の閉鎖を余儀なくされた。

この開拓後期の時期は、組合員の資金欠乏期であり、組合員は、手持ちの土地を売却して生活資金に充てていた。

 当協同組合は、これ以降、所有する土地を売却して有効に利用する方針へと変換していった。

  第四項 開拓終末期(農外事業期)     (昭和四十一年〜五十年)

 開拓終末期は、農外事業期であった。
 戦後の短期間に経済の急激な高度成長と食糧需給の好調期を迎え、開拓農業は、曲がり角に来ていた。

 昭和三十八年、開拓行政の収束が始り、千葉県開拓農業協同組合と一般農業協同組合との事業調整が自主的に行われた。

 千葉県下百余の組合は、地元総合農業組合に合併または解散に至った。

 昭和四十七年五月、中国分地区では、組合員全員で結成する東台株式会社が設立された。
 昭和四十八年頃から、千葉県においては、全国に先んじて開拓農業協同組合の早期自主解散が行政当局から勧告されていた。

 東台開拓農業協同組合は、相当の土地および建物の財産並びに各種の営業業務を所有していたので、直ちに解散をする状況下ではなかった。

 東台株式会社は、組合の所有する販売業務および不動産の賃貸業務を譲り受けて、営業を開始した。
 これ以降、東台株式会社は、組合の財産整理と事業の発展に努力を重ね、併せて株主である旧組合員の利益を挙げる企画を解散体制の促進策とした。

 昭和五十年十二月十四日、開拓三十周年記念式典が挙行され、西部公民館前庭の一角に、開拓三十周年記念碑が建立されて、東台開拓の終結を向かえた。 
 
東台から中国分への名称の変遷

 『東台』という名称は、入植者が東練兵場跡へ入植後に決定された名称である。
東台開拓農業協同組合において議論された結果、当地は、東練兵場の跡地であり、国分台地上に位置することから東台と名付けられた。当初、光が丘、緑ケ丘などが候補に挙がっていたとの記録が残されている。

 昭和九年十一月三日、市川町、八幡町、中山町、国分村の四町村が合併して、市川市市政が施行された。当時、この地は、千葉県市川市大字国分と称せられた。

 国分の地名は、天平十三年(七百四十一年)聖武天皇の詔勅により当地に建立されていた下総国分寺の名に由来する。

 昭和二十六年十二月一日、市川市は、大字を解消して町名制に改めた。これに伴い、大字国分地区の中程に位置する当地を中国分と命名して市川市中国分町と称せられ、ここに中国分町が誕生した。
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