The Neighborhood Association of Nakakokubun Ichikawa City
市川市中国分自治会
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目 次
  中国分史書編集委員会
  (吉岡、安達、三上、小林)

 第1章
 中国分街の生い立ち

第2章 明治期・大正期・昭和期の中国分街の変遷
  第1節
明治期の変遷
  2
大正期の変遷
  第3節
昭和期の変遷
  第4節
明治期・大正期・昭和期の市川の生活および生活空間の変容
 
中国分歴史探訪(番外編)
中国分の住宅建築現場から遺跡発掘

第3章 昭和期・平成期における
     中国分街の変遷
    (完成期へ向けての転換)
  第1節 軍事都市市川から
 学術学園都市市川への変容
  第1項 国立病院への移管による医療施設の変遷 
  第2項 大学への払い下げによる高等教育施設の変遷 
  第3項 大学以外の学校への払い下げによる教育施設の変遷 
  第4項 千葉県への払い下げによる各種公的施設の変遷
  第5項 民間施設への払下げによる 地域施設の建設およびその変遷 

        中国分歴史探訪      
 
 
  第3章 昭和期・平成期における中国分街の変遷 (完成期へ向けての転換)

 第二次世界大戦終結後の国府台地区における変容は、中国分街の成立およびその後の変遷に極めて重要な影響を与えた。
 

第1節 軍事都市市川から学術学園都市市川への変容 

 
昭和二十年年八月十五日、終戦を向かえた日本本土に進駐してきた連合軍最高司令部(GHQ)は、陸軍省を解体した。

これに伴い、日本政府は、八月二十八日付けで『戦争終結に伴う国有財産の処分に関する件』として、旧軍施設を大蔵省へ引き継ぐ閣議決定を出しており、この中で『陸海軍所属の土地兵舎その他の施設等の国有財産は速やかに大蔵省に引継ぎ大蔵省は、これを戦後に於ける食糧増産その他民生安定および財政上の財源等として活用すること(要旨)』との方針を打ち出したとの記載がみられる。

また、文部省より『時局の変転に伴う学校教育に関する件』という通達が大学等の教育機関へ提出され、旧軍用施設の戦災学校等への転換が図られた。

国府台の旧陸軍用地跡地は、医療や教育施設、研究所などに払い下げられ、学術文化都市へと変容して行くことになった。


 第1項 国立病院への移管による医療施設の変遷   

 
国府台陸軍病院(現在の国立国際医療研究センター国府台病院)は、明治五年、兵学寮病舎の創設を起点としており、明治十八年九月一日、現在の里見公園内に、教導団病院が発足した。

明治三十二年,教導団が廃止され国府台衛戍病院と改称され、国府台に駐屯する部隊の衛生面を担当することになった。

昭和十一年十一月十日、国府台陸軍病院と改称され、昭和十四年四月十一日、収容限界を超えたために、西練兵場(現在地)に新病舎が建設され移転した。

国府台陸軍病院は、壮絶な戦争によって精神疾患を発症した多数の兵士を収容しており、精神疾患治療および研究の中心的存在になっていた。このために全国から優秀な専門家が呼び寄せられていた。

終戦後、厚生省に移管されて、昭和二十年十二月一日、国立国府台病院として出発した。
昭和六十二年、国立精神・神経センターと統合して国立精神神経センター国府台病院となり、平成二十年四月、国立国際医療センター国府台病院となった。

   
 (国府台城跡 現在の里美公園)    (国府台病院

 第2項 大学への払い下げによる高等教育施設の変遷

 大学への払い下げは、現在の和洋女子大学、千葉商科大学、東京医科歯科大学、日本医科大学の四大学へ行われた。

 和洋女子大学は、明治三十年二月、東京麹町で、堀越千代を創設者とする和洋裁縫学院を始めとしており、昭和三年十月十五日、和洋女子専門学校を設立した。これが終戦後、昭和二十一年国府台へ移転する和洋女子大学の前身校であった。

 千葉商科大学は、昭和三年二月八日、東京西巣鴨において、遠縢隆吉によって巣鴨高等商業学校として創設された。

昭和十九年三月三十一日、巣鴨経済専門学校へと改称したが、昭和二十年四月十三日東京空襲により、全施設を焼失した。

昭和二十一年八月一日、国府台の現在地に移転し、授業が開始された。
昭和二十五年四月一日、千葉商科大学へ昇格して現在に至る。 
昭和二十六年四月、千葉商科大学に、森志久馬を初代校長として付属第一商業高等学校が開校し、昭和四十年六月、中国分の地に新校舎を建設して移転した。

 日本医科大学は、明治三十七年四月十五日、東京神田において、私立日本医学校として設立された。日本医科大学は、済世学舎を前身としており、私立日本医学専門学校、日本医学専門学校を経て、昭和元年、大学令によって日本医科大学(旧制)となった。
昭和二十年三月十日、東京大空襲により校舎を焼失し、一部は山形県鶴岡市に疎開していた。

終戦後、昭和二十一年七月に、鶴岡市から国府台地域に移転した。

昭和二十六年二月、学制改定により、新制日本医科大学となった。

昭和四十六年、千駄木校舎および新丸子校舎が完成して、全て移転した。

跡地は、千葉商科大学へ譲渡され、グランド,学生寮として利用されている。

 東京医科歯科大学は、昭和三年東京高等歯科医学校として設立された。その後、昭和十九年東京医学歯学専門学校と改称され、終戦後の昭和二十一年、旧制の大学に昇格して東京医科歯科大学となり、昭和二十六年、国立学校設置法により新制の大学となった。

昭和二十二年、東京医科歯科大学付属病院国府台分院が設置され、昭和四十年三月三十一日まで存続していた。

昭和三十三年四月一日、東京医科歯科大学国府台分校として医学および歯学部進学過程(現在の教養学部)が設置された。

平成十六年、国立大学の法人化に伴い、国立大学法人東京医科歯科大学と改称された。

   
 (和洋助詞学園現在)  (昭和52年千葉商科大学)  
   
 (昭和40年千葉商大付属高校)    

 第3項 大学以外の学校への払い下げによる教育施設の変遷  
 大学以外の教育機関へ払い下げられた。

筑波大学付属聴覚特別支援学校は、明治八年に私設で組織された楽善会を母体としており、この楽善会は、明治十三年訓盲院を設立した。訓盲?院と改称した後、明治十八年文部省の直轄校となり、明治二十年、文部省直轄学校官制が改正されると東京盲?学校と改称され、明治四十三年の改正で東京聾?学校と改称された。

昭和二十年五月、東京空襲により指ケ谷町の校舎を焼失した。

昭和二十二年、国府台に校舎が建設されて授業が開始された。

昭和二十四年、国立学校設置法が公布されて、国立ろう教育学校と国立ろう教育学校付属ろう学校となった。

昭和二十五年国立学校設置法が改定されて、東京教育大学付属学校、昭和五十三年筑波大学へ移管されて、筑波大学付属聾学校となり、平成十九年から文部科学省令の改定に伴い、筑波大学付属聴覚特別支援学校となり現在に至った。

戦後の混乱期とはいえ、社会的弱者といわれる人々の教育への取り組みの困難さを感じさせる変遷である。 

 千葉県立国府台高校は、昭和十八年四月、市立中央国民学校の敷地内に設置された市川市立中学校を前身としている。

終戦後、昭和二十一年市川市立高等女学校が創立され、昭和二十二年一月、市川市立中学校は、市川市立国府台中学校と改称された。

昭和二十三年四月、学制改革により、市川市立国府台中学校と市川市立高等女学校は、統合されて市川市立国府台高等学校となった。

昭和二十五年四月、千葉県へ移管されて千葉県立国府台高等学校と改称されて、現在に至っている。

 市川市立第一中学校は、昭和二十二年五月、市川小学校の教室を借用して開校した。翌昭和二十三年七月、現在の宮田小学校の敷地へ移転した後に、現在の校地である市立国府台高等学校内へ移転し、現在に至っている。

 払下げ地域以外の隣接地域には、市川市立市川小学校、市川市立真間小学校、市川市立国府台小学校など多数の小学校があり、初等教育を担っている。

昭和二十七年四月一日、市川市立国府台小学校は、市川市立真間小学校から分離し発足したが、昭和四十七年三月になり、市川市立中国分小学校が開校して、この市川市立国府台小学校から分離した。

 これらの病院および学校群は、市川市国府台地域における学術学園都市への変容の中核を構成して、現在も発展を続けている。

   
 (昭和33年東京医科歯科大学)    (昭和24年国立聾学校)

 第4項 千葉県への払い下げによる各種公的施設の変遷

 終戦後、連合軍最高司令部(GHQ)は、戦前から衛生業務を行っていた施設等の業務再開および継続を指示した。

昭和十九年三月、千葉県血清研究所の前身である陸軍軍医学校中山出張所内防疫部は、閉鎖中の中山競馬場跡地で、ガス壊疽抗毒素・破傷風抗毒素の製造を行っていた。

昭和二十一年四月一日、GHQの指示により中山競馬場で行われていた血清製造業務は、再開されることになったが、中山競馬場の再開が決定したため、千葉県血清製造所は、国府台へ移転した。

昭和二十四年四月一日、製造および研究機関として発展することを期待して千葉県血清製造所から千葉県血清研究所と改称した。その後、国内のワクチン市場は、民間メーカーが主流となり、平成十三年閉鎖された。

現存している赤煉瓦の建造物は、旧陸軍の唯一の文化的遺産として評価されている。

 国府台城跡地は、終戦後、市川市へ払い下げられて、公園として整備され里見公園として出発した。
公園内には、国府台城の痕跡が多くみられ、さらに小高い丘の一画には明戸古墳が残されている。

隣接地には、総寧寺の境内が広がっていたが、終戦まで軍用として種々の目的で使用されて寺社領とは言え特異の変遷であった。

 終戦後、引揚者や戦災被害者への住宅供給は、迅速の対応が求められたため、昭和二十年末、政府は、緊急生活援護要項を策定して、遊休住宅や旧軍用施設へ収容することになった。

昭和二十一年から同二十四年の間に、千葉県においては、各地の旧軍用施設に改修を加えて、二十六か所、一千八百四十五世帯、約七千名の戦災者、引揚者に提供した。

その後、住宅の老朽化や住宅としての環境の悪さから、『住宅地区改良法』に基づき、昭和三十四年から五カ年計画で廃止・再建設の計画が立てられた。

 国府台県営住宅は、コンクリートブロック造りの改良住宅として立て替えられたとの記録が残されている。

   
 (昭和47年中国分小学校)    (昭和47年国府台小学校)
     
 (昭和24年千葉県血清研究所)    

 
   第5項 民間施設への払下げによる 地域施設の建設およびその変遷

 特筆されることは、旧軍用地の一部が外国人による千葉ベタニヤホームおよび日本考古学研究所へ払い下げられたことである。

 大正八年、千葉ベタニヤホームの創設者で信徒宣教師であるエーネ・パウラスさんは、海外伝導の任命を受けて初来日した。来日後、パウラスさんは関東大震災の救護活動および母子寮、保育園、老人ホームの開設を行って、養護事業などを広く展開していった。

 昭和八年、パウラスさんは国府台に自宅を置き、それを虚弱児養護施設とした。

第二次世界大戦が勃発すると、昭和十六年、帰国した。

 昭和二十二年、パウラスさんは再来日して、国府台地域においては旧軍用施設の払い下げを受けて、千葉県下最初の保育園である国府台保育園を創設した。

同年六月には、入植者の要請によって東練兵場跡の開拓地(東台;現在の中国分)に東台保育園を開設した。この時以降、東台入植者とパウラスさんは、大変深い関係を持つことになった。 

昭和六年、オランダ人でカトリック司祭であるジェラード・グロート神父は、日本での職務に就くために来日した。

神父は、日本語や文学、歴史を学ぶ内に考古学に強い関心を持つようになり、布任地付近の遺跡の調査発掘を行っていた。

 昭和十四年五月、神父は、考古学研究所を持つ東京吉祥寺にある聖アルベルトホームへの着任を契機に、本格的な考古学研究に参加するようになった。

昭和十四年十一月に市川市堀之内貝塚、昭和十五年二月に姥山貝塚の発掘に参加しており、考古学関係の資料上にその名が散見されるようになった。

昭和十六年十二月、太平洋戦争が開戦すると、外国人の自由な活動が制限されるようになり、昭和十八年には、グロート神父は、日本政府によって買収されたフランシスコ会修道院(現在のカトリック北浦和協会)に収容されたが、日本で抑留された唯一の考古学者であった。

終戦の翌年昭和二十一年七月、神父は、民間情報教育局幕僚部に勤務する傍ら考古学研究の資料収集の発掘を行っていた。

昭和二十一年九月、神父は、市川市国府台の旧軍施設の払い下げを受けて、日本考古学研究所を開設した。初代所長に就任した神父は、千葉県北西部および茨城県南部を中心に発掘調査を行い、多くの刊行物を残している。

昭和三十二年八月に神父は帰国、昭和三十三年十月、同考古学研究所は名古屋移転が決定し解体された。その際、収集資料は、市川市教育委員会および南山大学(紳言会が経営:名古屋市)の人類学研究所へ移管されたと記録が残されている。

 国分台地周辺地域には、旧石器時代から縄文時代にかけての遺跡が数多く残されており、ジェラード・グロート神父は、終戦前後に亘り考古学的発展に貢献していたことは、歴史の都市市川にとっては感慨深いものがある。

このように外国人に払い下げられた施設における活動は、戦後の日本における生活援護および文化学術面に多大なる貢献を与えた。

現在、市川市内の貝塚や遺跡などから発掘された多くの出土物が市川市考古博物館や歴史博物館に収蔵されている。

(昭和22年東台保育園の開園)   
(昭和22年東台保育園の開園) 
 (昭和24年東台保育園遠足 上野公演    (昭和24年東台保育園卒園式

(堀之内貝塚 入口)
 
(貝の化石が露出した斜面)
 
 
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