資 料1        

京成バスの運行改善等

昭和57年9月10日 京成バス中国分線開業(ミニバス 国分繰車場〜国立病院前間 運行)
昭和61年2月28日  同 線  国分操車場〜市川駅直通運転

 同線の運行改善について中国分自治会の取組み 

昭和63年12月10日 高橋市川市長宛  根岸中国分自治会長
「京成バス中国分線バス運行方式の改善について」(陳情)
(要旨)国立病院北側の道路拡幅これに接続するじゅんさい池方面道路拡幅・曲線及び勾配の改良、住金用
地沿い道路の曲線改良等

平成元年8月22日 芝田市議会議長宛  根岸中国分自治会長外6,009名
「京成バス中国分線バス運行改善に関する陳情書」
(要旨)大型バス導入に必要道路の拡幅、曲線改良工事の実施と根本施策完了までの応急措置としてのミニバス増発についての要望
○この陳情は、同年9月の定例市議会で「継続審議」の扱いとなった。

平成元年11月17日  高橋市川市長宛  石井国府台町会長・根岸中国分自治会長連名
「京成バス中国分線バス運行改善に関する陳情書」
(要旨)県道市川松戸線との接続箇所での交通渋滞解消や民家、歩行者に対する安全確保に必要な国立病院北沿いの道路の拡幅等

平成元年11月22日  芝田市議会議長宛  根岸中国分自治会長
「京成バス中国分線バス運行改善に関する陳情書」
(要旨)ミニバス増発に必要な支給車両数増等についての要望
○上記二件の陳情は、平成元年12月の定例市議会におい全会一致で採択された。

平成2年5月15日  村田京成電鉄(株)社長宛 根岸中国分自治会長
「京成バス中国分線バス増発について要請」
(要旨)市費によるミニバス購入は困難。つきましては会社側の自主努力によってミニバス増発を実施するよう要望。

平成2月6月29日  市懇談会(市側出席者市民部長以下関係幹部11名、自治会側執行部役員全員)
 市側責任者から道路の拡幅整備及びミニバス増発等についての経過や今後の見通しにっいて説明があり、自治会側では一層の推進方要請した。

平成3年4月8日  市役所斎藤土木部長・石丸道路課長両氏との懇談
 自治会側会長以下執行部役員出席京成バス路線の拡巾整備並びに地域内道路、側溝等の整備惟進方要請

平成3年7月12日  市政懇談会(市側地域振興課、道路課、交通対策課等の関係幹部5名、自治会側会長以下執行部役員8名)
市側からバス路線の拡幅整脩やミニバス増発についての経過及び今後の見通し等について説明があり、自治会側ではなお一層の推進方要請した。

平成3年7月22日  高僑市長宛  根岸自治会長「ミニバス増便に関する陳情」
     〃      川下市議会議長宛 自治会長「      〃      」

平成4年5月13日  市政懇談会

 
 
 
   
      資 料2  
     
 
 
   
      資 料3  
   
 
 
   
     資 料4
                                      地図にみる中国分
 
   
1.成田参詣記 安政年間

 絵図に国分沼を楕円に近い形で大きく描き、蓴菜ヲ出スとあり。現在の道路は土手と記してある。台地上には国分村、国分寺とあり、国分寺の建物とその近くの住居が数軒描かれている。 

 
 
 
     
   
 2.明治13年地図

 中国分4、5丁目の北部は灌木の荒れ地、それ以南は国分寺まで畑であり、メインの道路は現在と同じく、2、3丁目間と3、4丁目間の道路、その他に農道が縦横に走っている。 

 
 
 
 4.大正10年図

 この図では、東台マーケットの南辺りから東に伸びる道が出来、二本松適りはここできられて無くなっている。

 
 
 
 
 5.昭和20年図

 昭和20年図は中国分の下半分しかないが小林さんの概念図にある高射砲隊兵舎がこの地図にも出ていて、戦時中のベールを剥いで出てきた感がある。東台マーケットの辺りで現在もあるメインの道路から分かれて東に向かう道路は地図にはあるが、小林さんの図にはない。 人っこ一人いないと思われた練兵場の北端に井戸を持っ管理人の家があり、人が住んでいたのは驚きだった。

 
 
 
 
6.昭和40年図

 中国分の様子はすっかり変わって、碁盤の目のように道路が走り、2、4、5丁目には多くの住宅が立ち、住友金属鉱山中央研究所や(株)エンゲルハルドが建っている

 
 
 
 
 
7.現在の図

 
 
 
 
 
付 千葉陸軍墓地

 明治18年に陸軍教導団ができ、日本全国から青少年が集められて軍事教育を受けた。中には病気や、怪我で死亡する人がいた。真間山弘法寺の墓地に、明治20年8月30日利根川(江戸川)で水泳訓練中殉職した秋田出身の富樫一等軍曹の顕彰碑があり、碑文に下総国府台睦軍墓域に葬るとあった。数年間探したが、最近アスレチックの駐車場である事がわかった。墓は早くに竺園寺に移転していた。
この碑の和歌を篆額の筆者は山岡鉄舟である。

 
 
 
 
 
 
   
 
  資 料5 
 
三角山のこと(陸軍射撃場)

  東練兵場に、三角山という山があった。付近の人は、射撃場のことをそう呼んでいたそうだ。
 実弾射撃場は、大きな土手をコの字型に盛り上げ、実弾が横にそれたときの被害防止に努めた。
 現在の4丁目の大部分を占めていた。幅 約200m、奥行 約650m、的を立てる土手は一段高く14.5mくらい。

 向かいの国府台から見ると三角形にでも見えたのであろうか。三角山の下部は、厚くレンガを積み上げた壕があり、標的を付けたまとが5基?あり、中に看的手がいて、射撃が終わると、赤い旗を出して射手に注意を促し標的を下に回して、着弾点を調べマークして標的を上にして、表示棒で着弾点を採点者に示した。
 5丁目の高橋氏の体験では、津田田沼の隊の初年兵や補充兵は一般の訓練が終わると実弾射撃の訓練があり、三角山の射撃場に来た。
 当時は、付近の老人、子供が土手に刺さった弾丸や薬筐を拾いクズヤに亮ると、いい金になったとか、下の農家で卵の差し入れもあったという。この付近の部隊の射撃訓練に広く使用されていたようである。
 4丁目亀山氏の話しでは、壕の沢山のレンガに目を付けた人がいて、目地のコンクリートを剥し、取り出し下肥だめを造った所、多くの人の要望があり、物資不足の折有効に使った由である。
 射撃場の原形は、開拓団の運勤会の写真や、軍隊の射撃訓練の写真に残されている。
 この多量の土は何処から運ばれたか、明治30年代の地図を見ると、最高部の等高線が描く菱形の占める部分は、練兵場の大部分を占めている。つまり平らなのである。
 更に五
丁目の貝塚発掘によっても上部が削平された状態であったと報告されている。この二点から削つた土を盛って造られたと想像している。

 
 
 
 
    資 料6  
 
  受   賞    
  昭和52年10月31日

〃  55年 3月 3日

〃 57年11月 9日

〃  60年 4月 1日 

〃  50年11月13日

〃  62年11日10日

平成5年 1月20日

〃  6年11月21日 

〃  7年11月 1日

〃  8年10月29日

共同募金

資源回収環境美化

共同募金に協力

赤十字全戸加入

社会福祉事業

共同募金

リサイクル活勤

リサイクル事業

国勢調査

リサイクル推進協力

県社会福祉協議会

市川市長高橋国雄

県共同募金協会

日赤県支部長

市川市社協会長

県共同募金協会

県環境部長

千葉県知事

総務庁統計局長

国務大臣経済企画庁長官