文   集   
 
 
 
初代会長 亘さんの思い出 

 三十周年記念おめでとうございます。
 初代自治会長の豊さんのことを知る人も少いと思い晋いてみました。私は亘さんとは十年くらいのお付合いをさて頂きました。
  当時、私が子供育成会の役員をやっているきでした。こまめに動いてくれる方なのでうんとに助かりました。 
 現在自治会館の二階にある写真は、昭和三八年四月となっておりますが、実は三十五に自治会長になっておりました。当時はまだ人ロも少なく、小さな自治会でした。

その後二、三年たっと段々人口も増えてきて、自会規約も作り、会長、副会長、会計、監事を定め、今日の自治会のさきがけとなりまし至さんは、昭和四十年に、子供育成会の会も兼任され、小柄の体でバイクに乗り、金魚釣りの金魚を東京都江戸川区鹿骨まで買いにいって下さったこと。夏は、海水浴にバス○○で行った思い出、またバラの頃は谷津遊園にも行ったりした思い出は尽きません。
 亘さんは健康上あまりお丈夫でない体にもかかわらず、活躍していただきました。昭和四十年福寿会の結成、四十三年には婦人会の結成の実現を図るなど中国分の礎をきづいててくれたと言っても過言ではないでしょ。

 亘さんは昭和四十八年四月まで、十二年の長い間、自治会長として町内のため尽くされました。昭和四十九年病に冒されて、五十年九月一○○永眠されました。 時にまだ五十八歳の若さでした。誠に残念に思います。
 
 この間、奥様にお会いしましたら、はや二三回忌を済ませられたとのこと。月日の経つの早いもので、お付き合いさせていただてから三十数年になります。 小柄な体でバイクに乗って走っていたお姿が目に浮かびます。

                                                                                (四丁目 亀山よし子)

 

 
 
故根岸自治会長の思い出 

 根岸さんと私の出会いは、根岸さんが中国分自治会長になられたと同時に、会計のお手伝いをさせていただき、以来八年間自治会の仕事を共にさせていただきました。
 根岸さんは、自治会は会計がしっかりしていれば、安泰だ。公金を使っているんだから頼むと励ましの言葉を何度か頂いた。 根岸さんは政界、官界等各方面に知己が多く、常に建設的な構想をおもちで、その実現に努力をされた。
 その一端を申し上げれば、市役所の幹部と自治会との市政懇談会では、ミニバスの増発、道路の拡幅、側溝下水の改善、ごみ処理、北総鉄道北国分駅開通に伴う取り付け道路、県道(市川一松戸線)の慢性的な交通渋滞を解消するために、国道14号線との交差点(市川広小路付近)の立体交差案を提案した。

 施設面では事務所を改築倉庫の一部を会議室兼コピー室、自転車置場、盆踊櫓、倉庫二棟。
交通改善面では、ミニバスの増発のため何度か押上の京成電鉄本社や市川市役所を訪問陳情を繰り返した。 バス道路拡幅では市川市議会に請願し、採択された。高齢者福祉に関しては、デイサービスセンターを中国分保育園に併設の請願(平成11年開設予定) 自治会館新設の構想、現会館は役員会などの会合には手狭のため、新設し会員の福祉活動の集会所、冠婚葬祭に利用できる規模とする。
 敷地については、二、三の地権者と交渉中のところ平成7年1月心臓発作にて緊急入院された。
時折お見舞いの際「根岸さ〜ん、根岸さ〜ん解る、解る?」と耳元でなんべんも呼んでも、目はこちらを見っめて視線が追ってきて、何か言いたさそうにロ元をモグモグ動かしても、言葉にはならなかった。さぞかL言いたいことがたくさんあったであろうと思います。
 一年三ケ月療養され他界されましたが、もっと自治会のため、頑張ってほしかった。かえすがえすも残念です。ご冥福を祈ります。

                                                           (五丁目 高橋宇佐美) 

 

 
   
中国分自治会と我が家 

 中国分自治会創立30周年、おめでとうございます。 私達は、昭和35年5月に、転入して来ました。旧練兵場跡のこの高台は、飛行場のような広さで、見渡す限り畑と草原で、台地の入口に旧軍人だった方々が開拓をして住まわれ、私達が分譲住宅として購入し転入し、その数を合わせても、百戸足らずの小さな町でした。
 それでも戦後初めての我が家に、夢のような嬉しさでした。小さな庭に芝を入れ、緑の絨毯の感触を楽しみました。
 ですが、悩みの種は道路で、ご存じのように、日本橋女学館の学校園は高く、前自治会長の根岸さん側も高く、あの高さだったものを一メートルも掘り下げて、作られたとの事で道路は低く、舗装されておりません。その為雨が降るとぬかるみ、霜解けでぬかるみ、まるで泥田のようでした。
 それで、隣組の方々と月に一度は石を敷き、道普請を根気良く続けました。やっと、市に舗装をしていただき、やれ嬉しやと思ったら、道が家の庭より高くなり、大雨の時、家の前のU字溝に水があふれると、水のはけロがなくなり、庭は満水になり、池のようになり、床下浸水をしてしまい、大変驚きました。
 まさか、この高台に住んで、床下浸水なぞ、考えてもみませんでしたから。幸い地元の議員さん、役員のお骨折りで、太い配水管が入り、モーターが作動して、その後、そのような事はなくなり、助かりました。また30年前は、私たちも若く、主人は野球が大好きな人でしたので、子供会の野球部の練習をみてやり、国府台の市民球場で、決勝戦まで進み惜しくも破れ、準優勝になった事もあります。
 その時の小学生が、今は小学生の子を持っお父さんになっております。また昭和52年4月から同じ4丁目の浅野氏より引継ぎ、自治会の会計を10年間務めました。今は2人ですが、当時は1人でしたので大変だったと思います。
 また私は43年婦人会の会長になった折り、故亘克己会長より、「盆踊りを宜しく頼む」と言われ以来30年間踊り手集めに苦労しております。今では中国分の盆踊りは、自治会の行事として、「敬老会」、「旅行」と共に皆さんのお楽しみの一っですが、なれないと、櫓の上に上ってくれません。
 そこで、婦人会民踊部を作ったり、当時まだ若かった老人クラブの方と踊ったり、10年前には、区長さんの奥さんの有志を募り「葉月会」と名乗りまた昨年は半年がかりで、昼と夜、稽古を重ね「ひまわり会」と名のり櫓に上って踊り、喜んでいただきました。
 何の行事でも、多くの方の協力無しでは、出来ない事です。またその間、故亘会長に頼まれ国民年金の集金を5年間続けたり、4丁目の民生委員を定年まで4期12年務めました。
 いまは嫁が子供会のお手伝いをしております。
 思えば我が家は、いっも誰かが何かのお手伝いをして、地域の為、協力しております。
 今は町も大きくなり、戸数もふえ、大変でしょうが、ますます充実して、たのしく住める、明るい町作りに、役員諸氏のご健闘を、お祈り申し上げます。
                                                            (四丁目 片岡 新) 

 
 
 
   
 
東台開拓のころ 

 国分という地名は勿論国分寺の有るところからつけられた名であるが歴史を感じさせるよい地名だと思う。

 この地はもと軍用地で国府台の連隊の東練兵場であった。終戦後この連隊の兵達が開拓者となりこの繰兵場を開墾し麦、芋、その他野菜を作り始めると東台と名付けられた。
 2丁目角にある東台マーケットは当時開拓者が建てた唯一の名ごりである。後、昭和26年に中国分と改称されたのである。開拓当時は水道もなく水といえば2丁目3区のところに高射砲隊で使用した井戸が一か所と江東区郊外学園に一か所あるのみで、この井戸水は天秤棒またはリヤ・カーで運ばれこれによって開拓者の生命が守られてきた。
 苦労の末、昭和25年に待望の水道が各家庭に引かれ、文化生活の糸口となった。一方野良仕事も当時強い風が吹くと黄塵万丈の名のごとく十メートル先は見えない程で作物は吹かれ土に埋もれてしまうこともしばしばであった。
 2丁目にアメリカ人の宣教師パウラス女史の肝入りで東台保育園が開設されると婦人達幼児を預けて安心して農事に専念することが出来た。東台保育園は昭和46年に「市立第九保育所」が設立され同年廃止された。
 昭和33年開拓組合が京成団地を誘致すると、またたく間にこの地は発展し賑やかな住宅地となっていった。じゅん菜池のデコボコの坂道も37年舗装され現在の立派な道路となった。
 昭和50年12月14日に開拓地であった西部公民館の一角に東台開拓碑がたてられ開拓30周年記念式典を行った。
   「もと開拓地公民館に位置占めて開拓記念碑魂あるごとし」
 昭和30年には開拓組合に婦人部を創設し、教養部、娯楽部、営農部、厚生部を作り、教養部では短歌、俳句、活花、ケーキ作り等を行い、楽しみは運動会で縄ない競争、もっこかっぎなど日ごろの農作業を競った。厚生部は検便等若さ溢れる日々であった。
 昭和30年夏2丁目にあった空地で初めて盆踊りをすることになり、陽の中を周囲の草を刈りタ方になるのを待って水を撤き盆踊りの準備をする。踊りの櫓は安達工務店の好意で出来上がった。人の乗れない形ばかりの憎であったが裸電球を吊り炭坑節ばかりを繰り返し夜の更けるのも知らず踊った。
 今は立派な櫓に昼もあざむくばかりの電灯がともり太鼓の若衆、踊り子も勢ぞろいしての盆踊り、亡き夫正五の挨拶している姿が目に浮かんでくる。
 正五は自治会三代目の自治会長となりこよなく中国分を愛し自治会作りに専念していた。今でもきっと目治会の発展を見守っていることと思う。
 終りに開拓時代に作ったったない俳句をご披露申し上げ自治会30周年のお祝いとさせていただきます。
 
             「麦踏みのわが影小さく続きをり」

             「から梅雨の慈雨に芋さす人おちこちに」
             「水乞える行商に一切の甘西瓜」
             「東京の子等にと虫を溜めをきぬ」
             「蛙鳴く田圃通れば我家の灯」
                                                             (四丁目 根岸渥子)
     
 
   

 
 
 
我が町

  我が町永住の地として、ひっ越してきたこの地区は、旧陸軍の用地で練兵場、射撃場として使用された土地で、約70町歩の平坦な台地で終戦時に農耕地として、31世帯に分譲、開墾、耕作された。昭和30(1955)年頃から宅地化が始まった。
 ひっ越してきた44年頃は、家も少なく、風が吹くと砂塵がものすごく、空が黄色くなり目も開けられないほどであった。
 道路の舗装はなく、雨の日の通動には長靴を履いて操車場のバス停まで行き、操車場に備え付けてある下駄箱に泥まみれの長靴を入れ、持参の短靴にはき替えていた人もある。舗装は47年(1972)頃にようやく完成した。
 通勤は、市川駅まで徒歩で約4〜50分、バスを利用すると、バス停まで徒歩で15分バスの乗車時聞10分が正規の所要時間であるが、朝のラッシュ帯は県道市川一松戸線が渋滞してバスが走らなくなると、乗客は途中で下車し、歩くことがしばしばあった。歩いて3,4台先のバスに再び乗車、いらいらしながら通勤した。
 現在は多少良くなったが、基本的には県道の道幅が狭いため、あまり変わらない。
長年の自治会の署名運動や請願の結果町民の願望だったバスが57年9月に国分操車場発中国分経由国立病院(国府台眼科)横着の運行が始まったが、市川−松戸線の国立病院前で市川駅行に乗るためには数分歩かなければならないという不便さと、料金も割高のたあ不評判で利用者も少なかった。
 その後も運行改善のため自治会主体の請願運動の結果、国分操車場発中国分、国立病院経由市川駅行の直通運行となって利用客も増加した。中国分の町は、通勧に関係のない人にとっては、静かで空気も良く、付近にはじゅんさい池緑地公園、小塚山市民の森、近くには江戸川、里見公園」などがあって、環境のよい住宅地である。
 昭和40年頃、国鉄では五丁目付近を宅地造成し、退職が近い人達に優先的に分譲した。それから30年すぎた現在では老人が多くなり、幼い子供が公園で遊んでいる姿を見かけることが少なくなった。寂しい限りである。市川市内でも老人の人口割合がおおい町である。
                                                                                      (五丁目 高橋宇佐美)

 

 
   
 
より良い我が町を 

 「お早うございます」「ごんにちわ」「お元気ですね」「お気をつけて」行き逢う人に声をかけるように務め,この頃ようよう私も、中国分にとけ込めた思いがしています。
 20余年前、国鉄団地と呼ばれる町に二人で移って来て、夫には知人が多くても、私には全く無縁な土地でした。
 目治会には直ぐに加入して、10年程前に班長や区長を務め、自治会や地城の多くの会の役員の方々のご苦労を知り、少じずつ自治会の活動にも関心を持っようになりました。
 東京での長い障害の方々との関わりから、地域の問題そして高齢化の状況など、気にかかることがだんだん大きくなりました。
 平成3年3月にお願いして「自治会だより」で「これからは地域で助け合っていくことがますます大切。皆でちいさなこと身近なことを無理なくやって行きましょう」と呼びかけをさせて頂き「手の会」が生まれました。
 中国分地区を中心に、高齢や病気の方などの家事介助、散歩や通院介助、話し相手、介護や見守り、買い物、配食、お子さんの一時保育、明松園や松番園のお手伝い、その他を続けています。
 活動の中から人間としての在り方、生き方など学ぶべき事も多く、ふれ合いを楽しみながら、40名の会員それぞれに努力しております。いっも「地域に役立っ手になりたい」と願って、7年目になりました。
 これからの少子時代は、高齢者を家族だけで支えるのは到底無理です。在宅福祉の施策も一層進むでしょうが、地域の皆で支え合いましょう。
 「人間は皆、周囲から有形無形の恩恵を受けている。助け合うのは当然のこと」と、私は祖母や母から言われて育ちました。
 「手の会」は自治会から、毎月の例会会場費の免除や助成をいただいています。少しでも地域のお役に立てれば嬉しいことです。
 平成11年に中国分保育園と併設される予定のデイサービスセンターは、痴呆や病弱の高齢者のためだけではなく、広く地域に開かれたコーナーも作って欲しいと望んでいます。
 元気な中高年者、勿論若い方々も集い、ローテンションを組み、お手伝いも出来るでしょう。明松園の方やボランティアによるお茶のサービスなど出来たら最高です。
 めでたく30周年を迎えられた自治会の活勤も、更にしっかりと、きめ細かくなることとおもいます。多くの住民の様々な特技を生.かし、力を寄せ含ったらどんなに素晴らしいことか。
 四季折々、花木の美しいこの町、ひとりひとりの生活を大切に、そして更にお互いに支え合う明るい住み良い我が町を目指して、一歩ずっ上を向いて歩.きましょう。
                                                                                    
(手の会 小川静技)

 

 
   
 
鉄寿会と国鉄団地
          鉄寿会 矢崎庄作 
○鉄道員(ぼっぼや)
 今年7月中旬、第117回直木賞に浅田次郎皮執筆表題の作品が選ばれたと報道された。
 JRのように近代的ではないが「ぽっぼや」という呼び方には、そこはかとなくぬくもりと親しみがあり、国鉄職場で精一杯取組んだ仕事に対する誇りすら湧いてきます。
○鉄寿会
 昭和46年4月、国鉄OB会市川支部の老人会として発足(同年市老連に加入)した鉄寿会の会員56名は、市川市内在住の国鉄OBとその家族11名で楕成されていたが、その後中国分国鉄団地の居住者が増えるのに伴って、会員の活動も、クリーン作戦・資源の集団回収等の環境整備とが、盆踊り等の地域誇活動への積極的参加、さらに自治会役員に選ばれた会員仲間の活動等が評価され、昭和63年度以降は、中国分自治会傘下組織団体の仲間に加えられ、自治会がら助成金の交付を受けるなど地域他の2老人会と足並を揃えている。
 今年7月現在の会員数は63名、平均年齢80.5歳と高齢かっ男性主体のぼっぼやOB集団ですが、闇もなく卒寿を迎えようとしている最高齢者を含め、かくしゃくとした人達が多く、月例会では、頭の体操(文部省漢字検定認定3級模擬試験用テキスト使用)等でボケ防止を計るなど充実した老後を目指し、明るく楽しくをモットーに支え合っています。 
○中国分国鉄団地C260
 表題の番号は、国鉄団地を造成・分譲した国鉄共済組合から私に、昭和38年1月通知があった区画割番号です。
 現在でも市交タクシーを迎車する場合、5丁目39番10号というより分り易いので、便利に使っています。
 分譲地の買収面積は、34,277坪、緑地帯(公園)や道路分牽差引いた27,623坪を約50、70、100坪の面積別に造成した372区画を、抽選で割振り分譲した。
 分譲単価坪当り17,400円には、土地代のほか工事費3,000円が含まれている。
 39年に、ガス・電気・水道工事が、翌40年に排水・道路整備工事が進むのに伴い、40年9月時点の建築家屋は84戸、内入居者54世帯。この頃入居者が自主的に親和会を結成し、空き地除草等の環境整備に当たった。44年に所有権の移転登記もほぼ終わり、大半の入居者が移転してきた。
 入居当初の住環境は、緑が多く閑静で、ひばり・鴬が鳴き、どうめき谷津からの賑やかな蛙の合唱も聞かれた。しかし、風の日は、まわりの畑の土ほこりに悩まされ、買物も商店街が還く不便だった。
○どろんこ道
 今でも語り草になつているどろんこ道、国分操車場バス停で、どうまみれのゴム長靴を通動用に履き替え。傭付けの下駄箱へ保管したことなど、今では想像もつかないような道路事情も、47年から4年かけて行われた団地の舗装工事で一応悩みが解消された。 
 
 
 
   
   
中国分の起源 

中国分自治会創立30周年おめでとうございます。又永年に亘り自治会行政に携わった歴代会長さん、役員さんには感謝申上げます。
 さて戦後のこの台地の名称について述べてみたいと思います。
 戦時中昭和20年迄は軍用地で東練兵場と言い、戦後開拓者が入植した時は、国府台の東の台地なので東台(人呼んであずま台、又はひがし台、或いはとう台)と呼ばれておりました。開拓者たちが第二の故郷として名付けた地名でした。
 昭和26年市の住居表示変更で中国分町と改名され現在の中国分の地名が誕生したわけです。(南に国分元村、北の北国分の中間の台地なので中国分とした)
 さてこの台地は明治18年と同36年と2回にわたり軍用地として買収されて以来、東練兵場として使用されたところです。
 面積は約79町歩(1町歩が約9.900平方メートル),東西1,500メートル、南北1,350メートル、国府台に駐屯する戦車、重砲兵部隊の演習場として、又馨井戸部隊の作業場(現高校付近)として、又大東亜戦争になってから現在の西部公民館.付近に高射砲部隊の陣地ができ、帝都の守りについていたが?
 この台地に復員軍人32名他家族103名によって、開墾の鍬下ろされたのが昭和20年12月14日でした。
 まず第一の目標は食料の増産が至上命令でした。砲車、戦車に踏み固められた土を、我々の人力で掘り起こす事は不可能に近かったが、不可能を可能にする精神力で、手にまめを作りながら頑張りました。
 昭和23年頃より、小麦、甘藷も生産可能となり何とか食べられる状態になり、当時のはやり言葉の「買い出し部隊」にも、おいもを別けてやれるようにもなり、現金収入も何とかなるようになりました。
 当時の開拓者の生活状況、苦労話などチョット記してみます。当時の住まいはバラックに畳などなく、むしろに毛布を敷き住まいとした。お風呂などなく、ドラムカンを使用した。又当地には水道などなく、現在の2丁目の一角に古井戸が一っ有っただけで、朝夕の時間帯は十数人がならんでの水汲みの行列、時々井戸が涸れてしまったこともありました。
 お得意のドラム缶風呂も、4日も5日も水を取り替えないのが普通の状態でした。戦場を思い、月を仰いでは、故郷をしのんだ思い出もあります。
 当時の開拓者の年齢は、20代、30代でしたが、慣れぬ畑仕事のことゆえ、人手不足に困りましたが、国府台から、畑仕事の出来るおばさん連が5人ほど、組合員宅を交互に手伝ってくれたので大変助かりましたものの、日当を払うのには苦労しました。
 当時国府台にアメリカ人の宣教師でエーネパウラスさんという人がおり、その人のご好意により昭和22年私達のために、東台保育園を開設してもらいました。
 若いお母さんは畑に出る前に子供を預け、昼時には、オッパイを飲ませ、また畑へという生活が続きました。その間、ララ物資の配給などもあり、衣類などでもずいぶんと助けられましたエーネパウラスさんも高齢のため、昭和46年帰国、閉園となりました。
 当時お世話になった子供たちも、今では50歳になるお父さんになりました。 この頃より、組合員も独自に営農方針をたて、酪農を目指す人、養鶏を目指す人、野菜に専念する人とそれぞれ異なって参りました。
 また堆肥を作るため豚も飼いました。洋服生地を得るために羊も飼いました。なれぬ手っきで羊の毛刈りも時々失敗しては、ごめんなさいと羊に謝り、そして洋服生地と交換した思い出もあります。
 開拓地は堆肥が必要でしたが、手に入れることが困難でした。昭和22年のキテイ台風は大きな台風でした。利根川右岸が決壊し、小岩、堀切方面も濁流にのまれ、皆床上浸水という状態になりました時、濡れた畳を集めに馬車を借りていったこともありました。
人の不幸を福とした思い出もまた早朝荷馬車の後を追い、出来立のお鰻頭?を誰よりも早く拾った感激今も忘れない!
 昭和23年東台開拓農業組合を結成、政府よりの借入金なども可能となり、農村工業事業として東台製パン工場を設立組合員の生産する小麦の加工を行い幅広い成果をあげたが時代の推移により、昭和36年に工場を閉鎖するに至った。
 同33年頃より京成土地、警視庁関係の宅地化始まる。(現在の4丁目)
 同38年組合員有志による国府台自動車学校設立、40年には千葉商科大学付属高校の誘致その他宅地化が進み、文化幼稚園、住友金属鉱山中央研究所、国鉄団地.等の建設が始まる。
 43年には第9保育園完成、同年東台会館完成し二階を地域の方々の集まりの場所とした。(現在の東台マーケット)
 47年には市の要請により、中国分小学校用地の買収に協力、49年西部公民館設立のための用地買収に協力、自治会館建設に当たっては組合所有地を市に提供し、市より借り受けるかたちで、建物は町民有志の寄付により設立された。
 時代の推移により、私逮の営農目的も達し得たものと判断し、昭和50年に西部公民館敷地の一角に開拓碑を建立、長い間の東台開拓農業協同組合を解散し、現在は拓友会という昔仲間の親睦の会を作り、毎年12月14日をその記念日として碑の前に集い亡くなられた人の冥福を祈り、思い出を語り合う今日この頃です。もう平均年齢80歳位になるでしょう。
 第二の故郷と定め昭和20年、この台地に来た私逢…現在の発展した中国分を誰が予想出来たでしょうか…私達も生あるかぎりこの地の発展を願い、人情味豊かな住みよいこの台地中国分の先駆者としての誇りを持ち続けたいと思います。
                                                                                    
(四丁目 亀山竹蔵)

 
         
  資料6 坂上の砂利道今昔