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中国分自治会創立30周年記念
自治会誌稿 


中国分自治会
平成9年10月
 
 
     
   
  目   次   
  第1章 草創期   
  第2章 昭和30年以後   
  第3章 組織の確立   
  中国分の歴史(原始から終戦まで   
  自治会の歩み(昭和20年から現在現在まで)  
  歴代役職員名簿 (昭和30〜35)  
  歴代役職員名簿 (昭和36〜41)  
  歴代役職員名簿 (昭和42〜47)  
  歴代役職員名簿 (昭和48〜53)   
  歴代役職員名簿 (昭和54〜59)   
  歴代役職員名簿 (昭和60〜平成2)  
  歴代役職員名簿 (平成3〜8)  
  歴代役職員名簿 (平成9)   
 
文 集 
  初代会長亘さんの思い出 
  故根岸自治会長の思い出 
  中国分自治会と我が家 
  東台開拓のころ 
  我が町 
  より良い我が町
  鉄寿会と国鉄団地 
  中国分の起源 
 
 
 
資料1   京成バス運行改善 
資料2    昭和28年〜平成9年間の中国分の戸数と人口推移 
資料3   平成7年度収入決算報告書他
資料4    地図にみる中国分 
資料5    三角山のこと(陸軍射撃場) 
資料6    受 賞 
 
 
 
 
 
 
 
 自治会創立30周年記念を迎えるにあたって

市川市中国分自治会
会長 樋口正次

 
 
 
会員の皆様、自治会創立30周年記念おめでとうございます。
 顕みますと、私達自治会員2,176世帯のこの地区は、「夏草や兵どもが夢の跡」(芭蕉)の旧陸軍の練兵場でありました。
 1945年(昭和20年)8月15日太平洋戦争終結後、旧軍人の人達31世帯が入植してから、世情の変化とともに農地が宅地になり、年毎に入居数も増え、現在は名実ともに市川市筆頭の自治会となりました。
 昨年(平成8年)10月には、リサイクル推進活動の功労により全国目治会で唯一の国務大臣(経済企画庁長官)賞を受賞し、地元千葉県はもとよりその業績は、北は北海道から南は沖縄まで全国に輝きました。これもひとえに、会員皆様の一致団結した努力の賜物であります。

 どうかこれからも自治会の発展にご協力下さるようお願い申し上げます。
 30周年記念行事について会員の皆様にお伺いしましたところ、「会場を設けて一部の者だけの記念パーティを行うより多少にかかわらず全員に記念品を贈るのがよいのではないかとのご意見が多数でありましたので、中国分の象徴といわれる、じゅんさい池公園の風景写真入りのテレホンカードをお贈りすることに本年の定期総会で決定しました。会員皆様のお手もとへお贈りいたします。
 なお、この創立30周年自治会誌稿に、ご寄稿いただいた皆様及び編集に努力された、総務担当の斉藤政巳副会長に感謝いたします。 終りに会員皆様のご多幸をお祈り申し上げます。 
 
 
 
  第1章 草創期  
 
 昭和20年の暮、荒涼とした旧練兵場に入った31家族は、バラック兵舎に居を構え、日常欠かせぬ食料、水、電気、道路、.緋水どれをとっても不足だらけの生活を強いられながら、きっい開墾作業に明け暮れし、村の団結と前進の目標をたてるため、翌21年7月「東台農事実行組合趣意書」が発表され、総会を経て、組合が設立された。
 その中に4部の事業部が出来た。社会部には、自治係、社会係。婦人部には、福利係がある。この2部は、今日の中国分自治会のはじまりと考えては不当だろうか。
 実行組合は、県の指導により23年8月に「東台開拓農業協同組合」に改変される。.幼児を抱えての作業は.親にとっては大変気掛かりである。 
1. 保育園の開設
 21年に組合員の努力によりバラック兵舎跡を利用して東台保育園が仮発足した。宣教師エーネ・バウラスさんのご厚意があっても、相当な決意のいる事であったろう。市立第一保育所ができたは、23年である。
 .幼児を保育園に預けての開墾作楽は、はかどった事であろう。22年高射砲隊兵舎跡に正式に業務を開始し、2、3歳児以下の幼児が10名位保育され、その後年々増え20名くらいとなり、閉鎖までの25年間で5〜600人の子供たちがお世話になった。  

2. 道 路

 道路といえば.今は舗装が当たり前になった。口府台から練兵場を西から東に抜ける道路が唯一の道路で、幅員は、広いところで6m.、狭いところは2mであった。舗装はなく砂利を入れて踏み固めたものである。雨が降れば、坂道は川となり、土砂は流れ去りV字状にへこむ.歩けたものではない。
 開拓計画図では、.国府台からの幹線道路は8m幅に、南北に走る幹線路は6m幅、その他は3m幅に計画された。23年に.西練兵場馬場跡に県宮住宅建般案が市より示され、亀山、小林両氏が出席しその計画を聞いたところ、国立病院北側の道路幅が6mに計画されているので、8mにすることを3日間連続で交渉したが、8mでは、住宅が建設できないから駄目だとの事で、引きさがざるをえなかったというし烈な交渉ががあったことは忘れてはならない。

3. 婦人部の活動
 26年婦人部は、東台地区を1区,2区、3区に区分し相互の連絡を計り、毎年お楽しみ会を開くことにした。これ以後婦人部は、生活向上のための講習会に参加したり、29年から毎年1回運動会を開き組合員の親睦と体力増進を計った。運動会は35年まで続いた。32年には町会主催の逐動会の記事がある。33年には、.町会から5000円の助成金が出た事も記されている。 

4. 中国分町の誕生

 26年12月、市は大字を解消し町名制に改め、ここに初めて中国分が誕生した。これまで、住居表示をどの様にしていたか2,3の例をあげる。
東台農事実行組合の設立者の飯島、村松、小林、小冷、木内の5氏はともに「千葉県市川市国分六反田」となっている。式場隆三郎氏は国分2418番地におられた。.市宮国府台浴場は国分町3722番地で後に国府台6,5丁目となる。中国分1〜5丁目に区分されるのは、20年後の46年であり、現在の表示になるのは、47年のことである。  

5. 競馬場設置案の浮上

 27年突然市長から中国分に競馬場置の案が示めされた。組合では、.総会を開き組合員の総意によるシビアな条件付さ同意書を提出したところ、流産となった。
 
 
 
  第2章 昭和30年以後  
 
1. 自治会誕生
 小林栄氏の記録によると「26年頃より生活も安定し、28年頃には、開拓者以外の一般住民も増え、人口も300人をこえて町会運動もするようになった。」と回想している。 町会設立の機運が醸成され始めていたのであろう。市川市史年表に30年4月中国分自治会設立ヒあり、.根岸前会艮も63年度自治会会員名簿のなかで言及されている。
 思うに市が31年に自冶会に対し、「事務費交付規定を実施し、市の事務の一部を委嘱する」との要項の発表と関係するのではなかろうか、婦人部主催の運動会が35年まで続き、自治会長佐藤仁三郎氏の名前がでる32年に町会主催の運動会開催の記録もある。
 33年の役員は、自治会長木内栄治氏一人である。 運動会は婦人部主催か、.町会より5000円の助成を受けたとある。36年役員名の記録は無いが、,収支決算は36年から始まっている。

 前年度繰越金は0ではなく無記入である。 37年度は資科に見られる通り会長、.副会長1、会計1、,監事2の体制で名実共に中国分自治会は活動している。
 この頃より、大口土地取引が活発化してきて農地より住宅地へ転換の岐路に立たされた。 組合員の中から自動車学校設立の機運も生まれた。 この年の世帯数はまだ216世帯、人口882人である。
 38年3月の総会で小林会長は、区画整理をして道幅拡張を力説したが、一部の不賛成者のため39年に実施する意向であった。39年に小林案を提出しが、関係部落は9分どおり賛成したが、東台組合員の承諾が必要のため、その後二度にわたって総会の決議を経て、原案のとおり区画整理をすることになったが、41年1月の総会において、このことを強く要請したが執行部は慎重に推進することで時期を失し、組合員の承諾を得ないまま、今日にいたっている。
 将来この地区が開発されても、現に消防自動車も侵入困難な街となることは必定である。と大変残念がっている。 当時は、開拓組合と自治会は表裏一体の関係であったかと思われる。 
2. 道路の補修
 舗装工事は40年に始まった。 改修、舗装、水路改修と工事が連年おこなはれ、採石の購入.工事の進捗に必要な措置がとら、.支出決算表の項目のうち街灯に次ぐ重要項目とになっている。 現在これらの工事は、市の直営工事としておこなはれている。 
3. 交通問題
 中国分と市川l駅あるいは、京成各駅との連絡は、京成バス県道市川―松戸線の国立病院前下車ルートが一本であた、人口の増加と共に混雑が激しくなり、36年に.京成バス国分線が開設されたが、混雑は解消されず、また両バス停へ出るにも10分以上要し、中国分経由の市川駅行バス路線開毅の要望が高まり、自治会長を先頭に、市長、市議会、.バス会社等と交渉を重ねた結果、道路幅の閥係もあって、57年9月ミニバスの運行が開始された。
 操車場発国立病院北側乗換という変則なものであったため、不便で利用者が少なく、再度、`道路幅の拡張、市川駅直通バスの運行を関係当局に訴え、62年2月から開始されたが.利用者が多く.増便の要請を繰り返し、逐次成果が上りつつある。(資料参照)道路の拡幅は、関係権者が多く簡単ではなくなった。 
 4. 各種行事  
  (1) 盆踊り  当地は長く無住の土地故、産土の神社が無く、開柘者が入ってからは.心の拠り所として、国分の日枝神社にお参りしているが祭りの代わりに住民あげて楽しめる      盆踊りに力を入れてきた。その起こりは、伝聞によるが28年に実弾射撃場の広場に、簡単な櫓を作り.明かりは、 近所の家から引かせてもらったという。 
     その後40年に盆提灯50出した記事がある。千葉商大付属高校ができてからは、運動場を借 りて4日間仮装で踊るなど盛大であった。 高校が手狭になってか       らは、会社、公共施設、空き 地などを利用して踊った。  小学校が開校した後は、今日まで自治会役員や傘下団体の協力により小学校で盛大に実施して いる。 
 (2) 敬老会  初見は41年ヘルスセンーへ招待した。 51年自動車学校で実施したこともあるよ うである。 62年には、人数の関係でか、該当者の年齢を75歳から77歳から       引上げ、欠席者    には菓子を贈ることになって現在に至つている。 
(3) 日帰りバス旅行  福寿会が46年長瀞日帰り旅行、47年には、自治会長も同行の記事がある がはたして現在の日帰り旅行の原点であるかどうか疑問である。 
(4) 施設見学  50年9月市のバスが借りられず、自動車学校のバスを借りて、市段所福祉課員の 案内で衛生処理場.、清掃工場、下水処理場を見学している。.
        老人会の行事かもしれない。これ  も現在引き継がれ自治会の行事として定着している。
 

 
 
第3章 組織の確立
1.会則の制定
 44年4月1日中国分自治会の会則が制定され、執行役員も決まったが、会議の場所も一定せず、橋本、東台会館等が利用されていたようだ。
事務は主として八木副会長の担当と思われる。名簿も作成されたらしく、手数料が支払われている。
 丁目はまだ制定されていない。900余の会員の住所区分は、1区から11区まであり、1,2,3区には数個の班があるが、現在の丁目、区、班との対応分らないが、区、班長に相当する世話役がいて、会費の取りまとめをやっている。1カ月の会費も明記したものはないが、30年代は100円か、44年から150円、57年4月から200円となり現在に至っている。
2.自治会館の建設
 会館敷地中国分111番地の23坪は開拓組合の所有地を48年8月市川市に寄付し、自治会が無償で借受会館を建てることになった。積立金895,600円と会員寄付金3,412,400円他収入計5,765,000円建築費3,722,920円他支出計4,697,700円であった。
 49年8月開館された。10月にパート事務員に篠田、三上両氏が採用された。三上氏は翌50年に小林正直と、篠田氏は52年に鍵田くに氏と交替した。会館二階の部屋は早速利用され始めた。
 
3.現況
 執行部の現体制が出来たのは、62年からである。
 会長、各丁目ごと副会長5、会計2、監事2.。副会長は分担業務を受け持つ。月一回の執行部会を持つ。
 46年に1丁目から5丁目までの区画が決まり、48年に丁目会長制を、翌年区長制をと試行錯誤を重ね、53年から区長一本になった。現在は23区175班の区、班長によって自治会は支えられている。執行部と区長は、月一回役員会を持ち合議により業務を執行する。
 会員数は、本年9月末で、2,163世帯である。
 
 
 
  中国分の歴史(原始から終戦まで)
 
 
 東京都と江戸川一つ隔てた千葉県西部の市川市の一区画である。高さ約23mの下総台地の一角を占める、緑豊かな人口7.000余人の住宅街である。  この台地の最高地点は5丁目大宮商店脇の十字路、八百新前十字路の25mを最高にして、自治会館前の24m,商大付属高校の南端の22m,尼寺跡21m,松香園前19mと南に下がるにしたがって低くなる。
 台地の新興住宅街には「光が丘」とか「夕陽ケ丘」のような没個性的な名前が付けられるが、遺跡のある国分二寺の名を継承して中国分としたのは、子孫に誇れる立派な地名だとおもう。 
 中国分は急激な宅地化のため、埋蔵遺跡の調査が不十分だったといわれているが4、5丁目北部で2か所発掘して、住居趾のある貝塚と縄文土器が一個完全な形で出土している。年代測定の結果BC2.820±170年であった。他に人骨、石器なども出土した。
 
 BC300年頃、北九州では弥生式土器が作られ、稲作がはじまった。それより200年後須和田では原始農耕文化が始まった。

 AD300年頃、大和朝廷が成立し、勢力を関東に伸ばし、その影響下で関東にも古墳が築造され始める。六世紀前半頃、国府台台地に千葉県西南部で最大の前方後円墳である法皇塚古墳が築造される。

(医科歯科大敷地内に現存)六世紀後半になると、弘法寺古墳、里見公園の明戸古墳が造られ、当時の豊かさがしのばれる。国分谷には条理制水田の跡が認められ、権現原にも集落が営まれる。
 経済的に豊かで、交通の便のよいこの地はAD650年頃下総国が編成され国府台に国府が営まれる。現在東京に両国という地名があるのは、隅田川を境に武蔵と下総が接していたからである。国府台が国の中心地であった事もうなずかれることと思う。

 710年(以下AD省略)政府は、平城京に移る。青丹よしとまで詠われた奈良の都の官衙を模して造られたであろう国府の建物を、この台地の縦穴住居に住む百姓たちはどんな気持ちで朝タ眺めたことであるか。721年に作成された、下総国葛飾郡大島郷戸籍が正倉院に残されている。

 大島郷の三つの里名は、江戸川区、葛飾区内の地名に比定されてしる。又この頃真間の手児奈を主題とした歌が、下総国府の周辺で作られ歌われた。
 都の詩人たちの詩情をあおり作られた歌が、万葉集に取り入れられ今日まで残された。歌中の美女は、手入れした事のない髪をなびかせ裸足で水汲む女である。当時のこの辺に住む普通の女の姿だったかも知れない。

 天平13(741))聖武天皇は国家安穏、国民の平穏無事を祈って詔を発し、国ごとに七重塔をもつ金光明四天王護国之寺(国分僧寺)、法華滅罪之寺(国分尼寺)を造立し、水田各十町を充てることを命じた。 同19(747)国分寺造営促進のため、石川年足らを各道に遭わし、寺地を検定させ郡司で造営に役立つものに専ら担当させ僧寺に90町、尼寺に40町を加給する。2年後下総国では旱魃と煌害のため飢餓、政府は食を与え救済する。同年諸寺の墾田の限度を定め、国分僧寺は1000町、国分尼寺は400町とする。 


 天平勝宝4(752)2月造東大寺司の次官佐伯今毛人は下総員外介兼務で、都で大仏造営の仕事に従事。同年4月大仏開眼、同8(756)6月使いを諸国に遣わし、国分寺の丈六の仏像を検査し促進させた。
  孝謙天皇詔して、来年の聖武天皇一周忌までに国分寺の仏像を必ず造り仏殿にまっり、仏殿、仏像の完成したものは、塔を造ることを命じた。
 こうした政府の援助や督促により、又飢餓などの苦難を乗り越え天平勝宝の末、下総国分寺は造宮された。緑の高台に堂塔伽藍の燦然たる姿が出現したのである。朝タの読経の声に違和感を持った住民も次第になじんでいったことであろう。寺の周辺には下級寺役人たちが縦穴住居にすみ、工房で建吻維持のための木工、金工の作業に汗水を垂らしていたことであろう。その間に陸奥の先住民族との絶え間ない戦いの前線基地として、兵員、物資の補給を強いられ、苦しい日々があったであろう。下総の属する東海道は交通量の増加により、井上、浮島、河曲の三駅は中路に格上げされ馬十疋を置くことになった。その3年後にはこれまで東山道に属していた武蔵国を東海道に属させる。相模、上総、下総と通じていた東海道の幹線は、相模、武蔵、下総の順になる  

 貞観17年(875)5月10日、下総国の俘囚が反乱をおこし、官寺(国分寺か)を焼き、良民を殺略する。下総守文室甘楽麻呂、飛駅(早飛脚)政府に報告、武蔵、上総、常陸、下野などの国々に各300人の援軍を出し追討する事を命じた。(この俘囚の乱に関係し国分寺周辺に施釉陶器を使用する集落成立)894年頃葛飾八幡宮が宇多天皇の勅願により建立されたという
 天慶2年(939)平将門、上野国府を襲い、自ら新皇と称し、王城を下総国亭に定めるが翌年2月平貞盛、藤原秀郷らに殺さる。長保5年(1003)平維良下総国府の館を焼き、官物を奪う。

 長元元年(1028)下総の住人前上総介平忠常反乱を起こし、安房守平維忠を焼き殺す。下総周辺大いに乱れ貞観年間に国分寺周辺に成立し施釉陶器を使用した集落は没落した。(和洋女子大付属女子中敷地) 
 それから100余年後、治承4年8月、源頼朝、石橋山に敗れ、海路安房に逃れ、千葉氏などの援助により体制を立て直し、松戸庄市河に到着、半月ほど下総国府の付近に逗留したという。国分寺にも兵馬を休ませた事であろう。八幡の名が史料に初めて見えたのは文治元年(1186)の事である。千葉氏の頭領常胤は軍功が詔められ建久年代に下総一国の守護職に補任され、以後千葉氏が相伝する。

 寛元元年(1243)下総国香取神社造営所役の内馬場を囲む土塁が国分寺の負担になっている。 
 

 正応6年(1293)には四面釘貫405間 作料官米60石 国分寺本役也 依地頭弥五郎時道女房造進乃の史料が見え、史家の解釈によれば、これは国分寺領の荘園に課せられたものという。
隣接の船橋御厨の広さの200町は他の史料によりわかっており、負担の80石から逆算して、国分寺は150町の荘園をもっていたものと思われる。これ以降の中世の史料は皆無であり、僅かに板碑等が7基残っていて、密教系のものである。国分寺を中心に古代以来の仏教信仰が残っていたことを示している。
 延元元年(建武3年)(1336)下総国分寺の諸堂炎上し、密善上人がこれを再興したという。この頃の法華経寺文書には八幡庄、曽谷郷、秋山村、高石神等、現在残っている地名が出てくるが、国分の名は出てこない。
 文明13年(14810)下総国分寺諸堂炎上の記事がある。
 天文7年(1538)第一次国府台合戦、永禄7年(1564)第二次国府台合戦の二度の戦いに主戦場に隣接するこの台地も大きな影響を受けたことは確実であろう。 じゅんさい池から中国分に上る坂道の途中にある小祠姫宮は、敗死した里見の武将の遺児が、世をはかなんでじゅんさい池に身を投じたのを、里人があわれんで祭ったという哀話が残されている。勝った北条氏は、国分寺をはじめ諸社寺に制札を与えたが国分郷の宛名のあるものもある。 

 天正18年(1590)北条氏は秀吉に敗れた。秀吉は関八州を家康に与えた。約100年間の騒乱は終わり平和な時代を迎えた。家康は、江戸近傍は天領又は旗本知行所とした。江戸時代初期には、郷と村が混在していたが、次第に村に統一された。 
 国分村の初見は、貞享3年(1688)に曾谷村との間に起こった水争いの訴状が江戸の勘定奉行所まで持出された事件であるが幸い勝訴となった。国分村には、名主、年寄、組頭の三役によって行政が行われていた。国分村の支配は幕末には

         旗下  大久保甚四郎  303石余

         旗下  鵜殿鎮五郎  167石余

         代官支配所(天領)    380石余

         今光明寺領        15石余

 上記のごとく4人の領主を持っ複雑な村である。この場合、名主は各領ごとにいたり、一人が他領を兼ねる場合もあり一定しない。
江戸時代、現在の中国分に集落があったか否かはわからない。

 明治維新を迎え、市川、船橋戦争を目の当たりにして驚いたことだろう。朝令暮改の指示命令が飛び交い、近くの総寧寺、弘法寺に駐屯する官軍の使役や物資の提供を余儀なくされた。 

 明治2年、下総は葛飾県と小菅県になり、国分村は小菅県に属し、河瀬知縣事の発案した福祉事業である報恩社基金に葛飾郡下で3番目の大金446両を據出した。この金は当時の疲弊した村々の復興に役立った。小菅県が廃止され、印旛県が設置されたのを機に、報恩社は解散されたが、基金は、出資者に返された。

 明治4年11月、同5年4月、名主、年寄などを廃止し、戸長、副戸長を置いた。同6年6月15日、千葉県成立、23日,国分小学校が国分村宝珠院に設置された。同7年12月、国府台村へ大学校設置問題起こる。村では、敷地反別の上申書を提出、9年11月、大学校敷地寺社移転料その他の指示が出たが、その後大学側の交通不便、水の便等の問題で頓挫する。村民は安い借料で18年の陸軍教導団の移転まで耕作したという。

 明治18年、現中国分の土地が買い上げられ、東練兵場となる。
教導団は、陸軍の下士官養成所で厳格な訓練により、優秀な下士官を排出し、中には将官になるものもいた。
 
 明治21年、国分尋常小学校新築落成、 同22年5月、市町村制施行により、国分、稲越、曾谷、下貝塚、須和田の5ケ村が合併して、始め五常村後国分村に改め昭和9年11月、4ケ町村合併市川市制施行まで続く。初代国分村長は旧曾谷村戸長石井半兵衛就任
 明治23年11月、今光明寺、国分寺と改称、 24年1月28日、国分寺焼失、同年11月、国分寺仁王門焼失、25年国分寺地蔵堂、不動堂再建、 27年7月に総武鉄道市川、佐倉問、 同年12月に市川.本所間開通

 明治32年10月、陸軍教導団廃止、11月野砲第16連隊移駐、37年2月日ロ開戦、野砲16連隊出動、39年2月凱旋、38年、市川橋(木製)竣工、41年9月、世田谷の野砲第15連隊国府台に移転 

 大正3年、京成電気軌道、江戸川、市川新田間開通、6年9月、大津波おこる。浦安、南行徳、行徳、船橋等、死者121,国分小学校の校舎破壊、10年国府台水道組合創立、11年野戦重砲兵第1連隊、国府台に移転、野戦重砲兵第7連隊新設
 昭和6年、全国的不況と東北、北海道に大飢鐘、失業者42万をこえる。官吏:俸給1割減俸、7年3月国府台で防空演習、8年11月3日、市川町、八幡町、中山町、国分村の4ケ町村が合併し、市川市制が施行される。


 昭和10年3月10日在郷軍人1500名による大模擬戦を東練兵場で挙行、高射砲第2連隊が国府台騎,砲兵大隊跡に新設、この年自治会、町会設立、 12年京成バス国分線運転開始、 13年6月真間川の堤防決壊浸水家屋3000戸、10月暴風雨により浸水家屋200戸、 15年11月皇紀2600年牽祝行耶が催された。
昭和16年7月、真間川氾濫1200戸浸水、12月太平洋戦争起こる。 17年、町内会数193、町内会連合会数22、 19年11月米爆撃機東京初空襲以後空襲多く、市内でも被害多発