東京都と江戸川一つ隔てた千葉県西部の市川市の一区画である。高さ約23mの下総台地の一角を占める、緑豊かな人口7.000余人の住宅街である。
この台地の最高地点は5丁目大宮商店脇の十字路、八百新前十字路の25mを最高にして、自治会館前の24m,商大付属高校の南端の22m,尼寺跡21m,松香園前19mと南に下がるにしたがって低くなる。 |
台地の新興住宅街には「光が丘」とか「夕陽ケ丘」のような没個性的な名前が付けられるが、遺跡のある国分二寺の名を継承して中国分としたのは、子孫に誇れる立派な地名だとおもう。
中国分は急激な宅地化のため、埋蔵遺跡の調査が不十分だったといわれているが4、5丁目北部で2か所発掘して、住居趾のある貝塚と縄文土器が一個完全な形で出土している。年代測定の結果BC2.820±170年であった。他に人骨、石器なども出土した。 |
BC300年頃、北九州では弥生式土器が作られ、稲作がはじまった。それより200年後須和田では原始農耕文化が始まった。
AD300年頃、大和朝廷が成立し、勢力を関東に伸ばし、その影響下で関東にも古墳が築造され始める。六世紀前半頃、国府台台地に千葉県西南部で最大の前方後円墳である法皇塚古墳が築造される。
(医科歯科大敷地内に現存)六世紀後半になると、弘法寺古墳、里見公園の明戸古墳が造られ、当時の豊かさがしのばれる。国分谷には条理制水田の跡が認められ、権現原にも集落が営まれる。
経済的に豊かで、交通の便のよいこの地はAD650年頃下総国が編成され国府台に国府が営まれる。現在東京に両国という地名があるのは、隅田川を境に武蔵と下総が接していたからである。国府台が国の中心地であった事もうなずかれることと思う。 |
710年(以下AD省略)政府は、平城京に移る。青丹よしとまで詠われた奈良の都の官衙を模して造られたであろう国府の建物を、この台地の縦穴住居に住む百姓たちはどんな気持ちで朝タ眺めたことであるか。721年に作成された、下総国葛飾郡大島郷戸籍が正倉院に残されている。
大島郷の三つの里名は、江戸川区、葛飾区内の地名に比定されてしる。又この頃真間の手児奈を主題とした歌が、下総国府の周辺で作られ歌われた。
都の詩人たちの詩情をあおり作られた歌が、万葉集に取り入れられ今日まで残された。歌中の美女は、手入れした事のない髪をなびかせ裸足で水汲む女である。当時のこの辺に住む普通の女の姿だったかも知れない。 |
天平13(741))聖武天皇は国家安穏、国民の平穏無事を祈って詔を発し、国ごとに七重塔をもつ金光明四天王護国之寺(国分僧寺)、法華滅罪之寺(国分尼寺)を造立し、水田各十町を充てることを命じた。 同19(747)国分寺造営促進のため、石川年足らを各道に遭わし、寺地を検定させ郡司で造営に役立つものに専ら担当させ僧寺に90町、尼寺に40町を加給する。2年後下総国では旱魃と煌害のため飢餓、政府は食を与え救済する。同年諸寺の墾田の限度を定め、国分僧寺は1000町、国分尼寺は400町とする。
天平勝宝4(752)2月造東大寺司の次官佐伯今毛人は下総員外介兼務で、都で大仏造営の仕事に従事。同年4月大仏開眼、同8(756)6月使いを諸国に遣わし、国分寺の丈六の仏像を検査し促進させた。 |
孝謙天皇詔して、来年の聖武天皇一周忌までに国分寺の仏像を必ず造り仏殿にまっり、仏殿、仏像の完成したものは、塔を造ることを命じた。
こうした政府の援助や督促により、又飢餓などの苦難を乗り越え天平勝宝の末、下総国分寺は造宮された。緑の高台に堂塔伽藍の燦然たる姿が出現したのである。朝タの読経の声に違和感を持った住民も次第になじんでいったことであろう。寺の周辺には下級寺役人たちが縦穴住居にすみ、工房で建吻維持のための木工、金工の作業に汗水を垂らしていたことであろう。その間に陸奥の先住民族との絶え間ない戦いの前線基地として、兵員、物資の補給を強いられ、苦しい日々があったであろう。下総の属する東海道は交通量の増加により、井上、浮島、河曲の三駅は中路に格上げされ馬十疋を置くことになった。その3年後にはこれまで東山道に属していた武蔵国を東海道に属させる。相模、上総、下総と通じていた東海道の幹線は、相模、武蔵、下総の順になる |
貞観17年(875)5月10日、下総国の俘囚が反乱をおこし、官寺(国分寺か)を焼き、良民を殺略する。下総守文室甘楽麻呂、飛駅(早飛脚)政府に報告、武蔵、上総、常陸、下野などの国々に各300人の援軍を出し追討する事を命じた。(この俘囚の乱に関係し国分寺周辺に施釉陶器を使用する集落成立)894年頃葛飾八幡宮が宇多天皇の勅願により建立されたという。
天慶2年(939)平将門、上野国府を襲い、自ら新皇と称し、王城を下総国亭に定めるが翌年2月平貞盛、藤原秀郷らに殺さる。長保5年(1003)平維良下総国府の館を焼き、官物を奪う。 |
長元元年(1028)下総の住人前上総介平忠常反乱を起こし、安房守平維忠を焼き殺す。下総周辺大いに乱れ貞観年間に国分寺周辺に成立し施釉陶器を使用した集落は没落した。(和洋女子大付属女子中敷地)
それから100余年後、治承4年8月、源頼朝、石橋山に敗れ、海路安房に逃れ、千葉氏などの援助により体制を立て直し、松戸庄市河に到着、半月ほど下総国府の付近に逗留したという。国分寺にも兵馬を休ませた事であろう。八幡の名が史料に初めて見えたのは文治元年(1186)の事である。千葉氏の頭領常胤は軍功が詔められ建久年代に下総一国の守護職に補任され、以後千葉氏が相伝する。
寛元元年(1243)下総国香取神社造営所役の内馬場を囲む土塁が国分寺の負担になっている。 |
正応6年(1293)には四面釘貫405間 作料官米60石 国分寺本役也 依地頭弥五郎時道女房造進乃の史料が見え、史家の解釈によれば、これは国分寺領の荘園に課せられたものという。
隣接の船橋御厨の広さの200町は他の史料によりわかっており、負担の80石から逆算して、国分寺は150町の荘園をもっていたものと思われる。これ以降の中世の史料は皆無であり、僅かに板碑等が7基残っていて、密教系のものである。国分寺を中心に古代以来の仏教信仰が残っていたことを示している。
延元元年(建武3年)(1336)下総国分寺の諸堂炎上し、密善上人がこれを再興したという。この頃の法華経寺文書には八幡庄、曽谷郷、秋山村、高石神等、現在残っている地名が出てくるが、国分の名は出てこない。
文明13年(14810)下総国分寺諸堂炎上の記事がある。 |
天文7年(1538)第一次国府台合戦、永禄7年(1564)第二次国府台合戦の二度の戦いに主戦場に隣接するこの台地も大きな影響を受けたことは確実であろう。 じゅんさい池から中国分に上る坂道の途中にある小祠姫宮は、敗死した里見の武将の遺児が、世をはかなんでじゅんさい池に身を投じたのを、里人があわれんで祭ったという哀話が残されている。勝った北条氏は、国分寺をはじめ諸社寺に制札を与えたが国分郷の宛名のあるものもある。
天正18年(1590)北条氏は秀吉に敗れた。秀吉は関八州を家康に与えた。約100年間の騒乱は終わり平和な時代を迎えた。家康は、江戸近傍は天領又は旗本知行所とした。江戸時代初期には、郷と村が混在していたが、次第に村に統一された。 |
国分村の初見は、貞享3年(1688)に曾谷村との間に起こった水争いの訴状が江戸の勘定奉行所まで持出された事件であるが幸い勝訴となった。国分村には、名主、年寄、組頭の三役によって行政が行われていた。国分村の支配は幕末には
旗下 大久保甚四郎 303石余
旗下 鵜殿鎮五郎 167石余
代官支配所(天領) 380石余
今光明寺領
15石余
上記のごとく4人の領主を持っ複雑な村である。この場合、名主は各領ごとにいたり、一人が他領を兼ねる場合もあり一定しない。
江戸時代、現在の中国分に集落があったか否かはわからない。
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明治維新を迎え、市川、船橋戦争を目の当たりにして驚いたことだろう。朝令暮改の指示命令が飛び交い、近くの総寧寺、弘法寺に駐屯する官軍の使役や物資の提供を余儀なくされた。
明治2年、下総は葛飾県と小菅県になり、国分村は小菅県に属し、河瀬知縣事の発案した福祉事業である報恩社基金に葛飾郡下で3番目の大金446両を據出した。この金は当時の疲弊した村々の復興に役立った。小菅県が廃止され、印旛県が設置されたのを機に、報恩社は解散されたが、基金は、出資者に返された。
明治4年11月、同5年4月、名主、年寄などを廃止し、戸長、副戸長を置いた。同6年6月15日、千葉県成立、23日,国分小学校が国分村宝珠院に設置された。同7年12月、国府台村へ大学校設置問題起こる。村では、敷地反別の上申書を提出、9年11月、大学校敷地寺社移転料その他の指示が出たが、その後大学側の交通不便、水の便等の問題で頓挫する。村民は安い借料で18年の陸軍教導団の移転まで耕作したという。
明治18年、現中国分の土地が買い上げられ、東練兵場となる。
教導団は、陸軍の下士官養成所で厳格な訓練により、優秀な下士官を排出し、中には将官になるものもいた。
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明治21年、国分尋常小学校新築落成、 同22年5月、市町村制施行により、国分、稲越、曾谷、下貝塚、須和田の5ケ村が合併して、始め五常村後国分村に改め昭和9年11月、4ケ町村合併市川市制施行まで続く。初代国分村長は旧曾谷村戸長石井半兵衛就任
明治23年11月、今光明寺、国分寺と改称、 24年1月28日、国分寺焼失、同年11月、国分寺仁王門焼失、25年国分寺地蔵堂、不動堂再建、 27年7月に総武鉄道市川、佐倉問、 同年12月に市川.本所間開通
明治32年10月、陸軍教導団廃止、11月野砲第16連隊移駐、37年2月日ロ開戦、野砲16連隊出動、39年2月凱旋、38年、市川橋(木製)竣工、41年9月、世田谷の野砲第15連隊国府台に移転 |
大正3年、京成電気軌道、江戸川、市川新田間開通、6年9月、大津波おこる。浦安、南行徳、行徳、船橋等、死者121,国分小学校の校舎破壊、10年国府台水道組合創立、11年野戦重砲兵第1連隊、国府台に移転、野戦重砲兵第7連隊新設
昭和6年、全国的不況と東北、北海道に大飢鐘、失業者42万をこえる。官吏:俸給1割減俸、7年3月国府台で防空演習、8年11月3日、市川町、八幡町、中山町、国分村の4ケ町村が合併し、市川市制が施行される。
昭和10年3月10日在郷軍人1500名による大模擬戦を東練兵場で挙行、高射砲第2連隊が国府台騎,砲兵大隊跡に新設、この年自治会、町会設立、 12年京成バス国分線運転開始、 13年6月真間川の堤防決壊浸水家屋3000戸、10月暴風雨により浸水家屋200戸、 15年11月皇紀2600年牽祝行耶が催された。
昭和16年7月、真間川氾濫1200戸浸水、12月太平洋戦争起こる。 17年、町内会数193、町内会連合会数22、 19年11月米爆撃機東京初空襲以後空襲多く、市内でも被害多発 |